エッセイ・論文(2 / 3ページ)

エンパワメントとレジリアンス

森田ゆり 月刊「部落解放」2018年11月号 多様性の今16掲載 「レジリアンス」という用語の使用は日本では2010年代に入って急激に増えてきました。欧米では1970年代後半から子どもの発達、社会教育の分野で使用され始め、90年代後半には心理、精神医療などの人文分野でも頻出するようになり、今日ではビジネス、経営学、防災、都市計画、生態学などほぼあらゆる分野で使われるようになりました。 エンパワメントとレジリアンス、どちらも人権を「生きる力」と解釈する 実践的人権論に基づく対人援助論の支柱をなす概念なので、言葉の由来を含めて、ここでその意味をあらためて再考しましょう。   レジリアンスとは 1999年に出版した拙著「子どもと暴力」(岩波書店)の中で「弾力性」という章立てをして次のように書いたのが日本で最初のレジリアンスの紹介だったと思います。 「人間関係に葛藤や対立はつきものだから、子どもも大人もさまざまなストレッサー(ストレスを起す要因)に出会っていくのが現実だ。こうした外からやってくる抑圧やストレスはときには人の内に深く侵入し、内的抑圧となって自尊感情を低め、健康に生きるさまざまなちからに傷をつけてしまうこともある。しかし、いつもそうなるわけではない。なぜなら人はたいていの外的抑圧ははね返してしまう力を持っているからだ。抑圧がいったん内に侵入し、心の内に傷を付けられたとしても、その傷を自分で癒してしまう自然治癒力も人は持っている。 このような力のことを英語では レジリアンシー(弾力性)と呼ぶ。ここで敢えて英語を出したのは、80年代の末頃から米国の虐待問題に関る専門職の間では、レジリアンシーがキーワードとしてしきりに言われ出したからだ。私自身も80年代の末に企画した虐待防止に関するカリフォルニア州レベルの研修会で「子どものレジリアンシー」というテーマをつけたことを記憶している。 (中略) ゴムボールを人のこころと見た時、外からのプレッシャーによってボールは変形する。ストレッサーがなくなれば、ボールはまた元の形に戻る。これが弾力性だ。人はみなこの心の弾力性を持っている。しかしこの弾力性が失われていたら、ボールはストレッサーを受けると変形したままになってしまう。些細な外的な刺激にも過剰に反応してしまう。すなわちストレスによって健康な心の状態が維持できなくなってしまうことだ。」 レジリアンスを最初に学術的概念として研究課題に挙げたのは、子どもの発達の長期的研究ではよく知られているワーナー等による「カワイ島縦断研究」(Werner EE, Smith RS : Vulnerable but invicible ; a longitudinal study of resilient children and youth「脆弱しかし不屈:レジリアントな子どもと若者の長期研究」McGraw-Hill, New York, 1982 )だと言われています。 この画期的な研究は、1955年にハワイのカワイ島のサトウキビとパイナップル農場労働者(大半が日系人、フィリピン人及び先住ハワイアンで高校を卒業していない)の家族に生まれた全ての新生児の発達をその後、1歳、2歳、10歳、18歳、そして成人した38歳まで追跡したものです。出産前の多重ストレス、貧困、家庭内不和、不十分な保育と教育環境などの過酷な生育条件が発達成長に及ぼす影響とそのリスク要因の分析を目的に始まった研究でした。しかし過酷な環境を乗り越えて健康に成長するケースが予想以上に多かったことから、研究は、途中でリスク要因よりも健康な発達を可能にする保護要因の特定にフォーカスがシフトします。すなわち困難状況の中でも健康に強く生きていく力、レジリアンシーの要因を分析していったのです。   レジリアンスのルーツは家族や地域 貧困、不和などの問題を抱える家族、中位から深刻レベルの出産前ストレスなどのハイリスク親の元に生まれた201人の子どもの3人に一人は、その後10歳までに深刻な学習問題、行動問題を示し、18歳までには非行に走り、メンタルヘルス問題を発生、10代で妊娠などを経験していました。ところが同じ3分の一(72人)は、深刻な学習上、行動上の問題もなく、よく愛し、よく働き、よく遊び、よく期待される子ども時代を過ごし、有能な社会人に成長したのです。過酷な成長環境にありながらこれらの子どものレジリアンシーのルーツは何だったのかを特定分析することに研究のフォーカスはシフトしました。 研究結果を短く要約するならば、幼年期には少なくとも一人の愛着形成対象としての世話をしてくれる大人がいた、青少年期にはロールモデルとしての大人がいた、家庭における生活のルールや規範が機能していた、家族、親族、近所、学校、教会などで大人や子どもとの信頼、愛情関係を持っていたなどの家族、地域コミュニティの存在がレジリアンシーのルーツとして特定されたのでした。 レジリアンスはもともと「復元力」「弾力性」「弾性エネルギー」という意味の物理用語を人間の成長や健康に転用した言葉で、「困難な状況にも適応して健康を維持するしなやかな力」という意味です。それは強靭な屈強さではなく、しなやかな耐性力です。ですから反対語は「vulnerabilityもろさ、脆弱性」が使われます。そして「カワイ島研究」が明らかにしたように、健康な人間関係を保つコミュニティの支えがわずかでもある限りは、困難、抑圧が大きくても、その分はじきかえす力も強いという意味を付与された用語でした。 私は学生時代の日本の最貧困地区での子どもとのキャンプ活動、メキシコ、ガテマラ、ロスアンゼルス、サンフランシスコのゲットー、先住アメリカンの居留地など、世界の貧困地域での子どもたちとのフィールドワークの経験から、困難環境に生きる子どもたちの生活力と健康度に目を見開き、希望をもらってきたので、このレジリアンシー概念との出会いはエンパワメント概念と同様に自分の経験に言葉を与えられたようで感動的でした。 レジリアンシーとは「受けてきた抑圧が大きいほど跳ね返す力は強い」というテーゼとして私の中に定着しました。   ストレンス基盤(ベース) エンパワメントやレジリアンスの概念が60〜70年代の米国の社会変革の運動の中で育っていった背景には、問題解決の方法論の大きなシフト転換がありました。70年代までは個人や家族や社会の問題を解決するには、その問題点やリスク要因を分析し、それらを減らすというアプローチが大半でした。このアプローチはパターナリスティック(有識者や政府の知性が一般大衆の抱える問題を解決するという信仰)な社会の反映でもあります。それに対して、問題の中に潜在する肯定面、良い面に注目し、その一層の活性化をはかるという方法論が70年代の社会変革運動の中で生まれ、それは今日ではストレンス基盤(ベース)と呼ばれています。 先に紹介した「カワイ島長期研究」は40年近くに及んだ長期縦断研究であったが故に、まさにその間に起きた社会意識の変化がそのまま、研究のフォーカスのシフトをもたらした、すなわちリスク要因の分析からストレンス要因の分析へとシフトした興味深い例です。 ストレンス(strength)という英語は、「レジリアンス」が人文分野で使われるようになった80年代に前後して、米国の子どもの虐待分野の研究者や実践家の間では「strength based program」(人の強さに着目するプログラム)と言った文脈で使われ始めました。 児童福祉の分野で「strength based」を70〜80年代に最初に主張したのは、マイノリティーの人々でした。エンパワメントの用語が人種マイノリティ、女性、障がい者たちの人権運動の中で生まれ普及していったのとそれは歴史を共有しています。 ニュージーランドの先住マウイ族の教育者であり言語学者のDrTe Kapunaga Dewes,(1930~2010)はコロデューズ ”Koro”・・・

ミレニアル時代のフェミニズム:ビヨンセからプッシーライオットまで多様なセレブ達がSNSで男社会を揺さぶる

森田ゆり 月刊「部落解放」2018年9月号:多様性の今 14 より転載 第二波フェミニズムの大衆的広がり:1985年国連世界女性会議第二回ナイロビ大会 33年前、1985年国連世界女性会議第二回ナイロビ大会に、私はアメリカのフェミニストとして参加した。この世界女性会議は、戦後40年をへた第二波フェミニズムの大衆的広がりの一つの大きな頂点となった。 当時住んでいたカリフォルニアからケニア・ナイロビはちょうど地球の反対側。2日間の長旅の末、ナイロビのホテルに到着した途端に、世界から集まったフェミニスト達を団結させた驚きの出来事が展開した。 会議の開始2日前になって、各国政府代表団のホテルが足りなくなっているので、NGO/NPOの人たちは、予約を明け渡して欲しいという通達をケニア政府が出したのだ。 NGO/NPOの私たちは、この差別的な対応に驚き、怒り、即座にホテルごとに集まり、情報を共有し合い、抗議声明を出し、他のホテルの人々と連携してケニア政府にプレッシャーをかけた。 この間のフェミニスト達の速戦力は見事だった。特にフィリピンの女性達のリーダーシップの力強さを目の当たりにして、感心したことを記憶している。 ちなみにその数日後の大会中、日本のある女性グループのワークショップを傍聴したら、日本のフェミニストはアジア諸国の女性達をリードし、エンパワーしていると言った趣旨の発表をしていたので、苦笑してしまった。 今、自分たちに降りかかった差別に対して、即座に世界から集まった女性達を組織することに貢献していたフィリピンの女性たちほどの指導力を示した日本からの参加者は一人として見かけなかったからだ。 会議の開始第一日目には、また別の予期せぬアクションが展開した。大会はナイロビ大学のキャンパスで開催されたが、レスビアンをテーマにしたワークショプが教室から排除されたのだ。ナイロビ政府の意向だった。レスビアンである無しに関わらず、怒ったフェミニスト達は、抗議集会を開き、中庭でのワークショップをゲリラ的に開催した。 また別の中庭の大きな木の下には、たくさんの人が集まっていた。中心でスピーチをしていたのは64歳のベティ・フリーダンだった。戦後のフェミニズム勃興に多大な影響力を持ったフェニスト理論家である。 彼女の”The Feminine Mystique”(邦訳「新しい女性の創造」)は、20世紀の最も影響力のある著作の一冊とされ、世界中のベストセラーとなった。家事労働/主婦の役割を問い、「個人的なことは政治的である」の理論と方法は,中産階級の主婦層にも浸透し、第二派フェミニズムの理念的・運動的潮流を築いた。彼女は1966年に全米女性組織NOWを結成し、初代会長に就任した。 「男性は敵ではない。彼らもまた犠牲者なのだから。本当の敵は自分たち自身をおとしめ、卑下する女性達だ。」とはフリーダンの有名な言葉である。 フリーダンはNOWの結成初期の頃はフェニスズムが誤解されることを恐れて、レスビアンの参加を「ラベンダーの脅威」と呼んで拒んだが、レスビアニズム活動家からの抗議にあって、1970年にはすでに和解していた。   性暴力の告発 1885年のナイロビ大会で私たちはCAP(子どもへの暴力防止プログラム)を伝えるワークショップを行った。CAPは1978年にオハイオ州コロンバス市のフェミニスト団体、レイプ救援センターが開発した。その開発者の一人のサリー・クーパーと私は、CAPを初めてアメリカ国外に紹介する大役を負って大会に参加した。 CAPは、いじめ、誘拐、性暴力など、あらゆる暴力から子ども自身が身を守る防止プログラムで、その思想の中心に子どもの人権とエンパワメントを据えている点も含めて、フェミニスト運動が生み出した歴史的な傑作といえる。 1985年の段階では、性暴力はまだ国際会議の中心課題とはなっておらず、性暴力関連のワークショップの数も少なかった。とりわけ子どもに対する性暴力をテーマにしたものは私たち以外にはなかった。会場は参加者が溢れて、椅子や机を廊下に出して床に座っても一寸の隙間もないほどぎゅうぎゅう詰めになった。 サリーと私は机の上に立ってスピーチをした。この大会は性暴力告発の世界での曙(あけぼの)となったが、女性•子どもへの性暴力が重要課題となるのは、その10年後、1995年の第三回世界女性会議北京大会を待たねばならなかった。   アニタ・ヒル証言: セクシュアルハラスメントへの取り組みが広がる 1991年 1991年10月。35歳のオクラホマ大学法学部の教授だったアニタ・ヒルが、かつての上司、クラレンス・トーマスからのセクシャルハラスメントを連邦議会で訴えた。 トーマスは当時のブッシュ(シニア)大統領から最高裁判事の指名を受けていた。アメリカでは最高裁判事は上院議会が審理し投票で採決する。その上院公聴会審理でアニタ・ヒルはトーマスからの執拗な被害を証言した。 最高裁判事は終身地位なので、保守派がなるか革新派がなるかは、アメリカ社会に決定的な影響を与える。トーマスが米国史上2番目の黒人候補であったこと、そして保守的な人物であったことで、この出来事は高度に政治的な意味合いを持つことになった。公聴会は全米に連日TV生放映された。 その当時、カリフォルニア大学のダイバーシティ主任研究員として、大学教職員のセクシュアル・ハラスメント予防研修を担当していた私は、仕事としてそのTV生中継を何時間も見ることになった。 共和党議員によるアニタ・ヒルに向けた露骨な性描写や人格批判は、それこそがセクハラにほかならないひどいものもあったが、ヒルはよくそれに耐えた。トーマスは一貫して無実を主張し、結局彼は上院の採決で最高裁判事として承認された。以降今日に至るまで9人の裁判官の1票として保守的な最高裁判決を下す役割を担ってきた。 この事件以降、多くの大学や企業が職場内のセクシュアル・ハラスメント研修を義務付けるようになった。先行してセクハラ研修の開発に取り組んでいた私たちは、他大学にも教えに行くようになった。それから約4世紀半後の2015年にHBOのテレビ映画「コンファメーション(原題) /Confirmation」でこの事件が映画化された。   沈黙をやぶって 日本1992年 1992年に私は「沈黙をやぶって」を出版して、子ども時代の性暴力の被害者の声を日本で初めて公にした。そして次のように呼びかけた。 「人生のネガティブな汚点でしかなかったその体験は、それを語り意識化しようとするプロセスの中で、その人の強さの拠り所となり、その人の存在の核ともなる。語り始めること、いまだ存在しない言葉を捜しながら、たどたどしくも語り始めること。語ることで出会いが生まれ、自分の輝きを信じたい人たちのいのちに連なるネットワークができていくことでしょう。ひとたび沈黙をやぶったその声を広く、日本の社会いたるところに響き渡らせていく大きな流れのムーブメントの担い手に、あなたも加わりませんか。」(「沈黙をやぶって」森田ゆり著 1992年築地書館) 刊行後、「実は私も・・」と誰にも言えないできた子ども時代の記憶を語る何百通もの手紙が届いた。 あれから四半世紀、多くのサバイバーが、「ささやき声で、泣き声で、叫び声で、怒りの声で、長かった夜の無言(しじま)を突き破り」(前掲書)性暴力を沈黙の闇の中から、昼の陽光のもとに引き出していった。 そして昨年2017年。強姦罪の110年ぶりの改正が実現した。しかし被害者を苦しめる最大の要因だった強制、脅迫要件に関しては、議論されることすらなく、据え置きとなった。 子どもへの性暴力に関しては、18歳未満の子どもを現に監護する者が性交などをした場合に、暴行や脅迫がなくても適用される「監護者性交等罪」と「監護者わいせつ罪」が新設された。 時を同じくして、安倍首相のお抱えジャーナリストとも見なされている元TBS記者山口敬之からレイプされたことを訴えて、実名顔出しで記者会見を開いた勇気あるサバイバー、伊藤詩織さんが登場した。 彼女の日本の性暴力の状況を変えるという強いミッションにもとづく行動は、SNSで世界中を駆け巡り、日本のみならず他の国々からも多くの共感と支持が巻き起こった。 2017年はこの二つの出来事ゆえに、日本の性暴力の歴史におけるエポックメイキングとなった。私たちは新しい時代に入ったのである。 ちなみに英国BBSは「日本の秘められた恥」とのタイトルで詩織さんを取り上げた約1時間のドキュメンタリーを2018年6月に放映した。   ミレニアル世代のフェミニズム ミレニアル世代とは、2000年代になってから成人になった20歳から35歳ぐらいの人々をさす。子どもの頃からデジタル、スマホ、SNSに触れていることから、新しい働き方や価値観を体現していると言われている。詩織さん(29歳)もこの世代に属す。 私の3人の子どもたちもミレニアル世代だ。特に娘、純スティンソンは34歳で、この世代の中核年齢であり、ドキュメンタリー独立映画監督として,またアルジャジーラFBニュースのプロヂューサーとして、その作品はフェミニストとしてのエンパワメントの視点を失わない。 ミレニアル世代のフェミニストの特徴を、娘と一緒に検証してみたら、以下のような特徴が抽出された。 1. ビヨンセ、マドンナ、アデル、エマ・ワトソン、アンジェリーナ・ジョリー、ケイティ・ペリー、スカーレット・ヨハンソン、プッシー・ライオット等々のスーパーセレブ達が、この世代のフェミニズムのインスピレーションであり、リーダーである。運動のリーダーは学者ではなく、弁護士や国会議員ではなく、人気を博すロックやパンクのシンガーや女優達だ。 2. フェニストとしての主張をSNSで発信している。・・・

マイケル・ジャクソンと子どもの癒し・世界の癒し

『部落解放』連載「多様性の今9」2018年4月号掲載 編集部の好意で転載許可 森田ゆり(作家) 誤解され続けたポップ・スター ぼくの子ども時代を知っている? ぼくには子ども時代がなかった。 人々は、ぼくは変だという。 人々は、ぼくは普通じゃないという。 ぼくは、ただ子どものような単純なことが大好きなだけだ。 つらい子ども時代だったんだ。 ぼくを判断する前に、君の心の中をのぞいて。そしてぼくをわかってほしい。           (Childhood 1995年)    彼の死から5年後の2014年になって初めて私はマイケル・ジャクソンに出会った。同時代に生きていたのに、マイケルの本質について何も知らなかった長い年月があったことを歯ぎしりするほどに悔しく思う。  なぜあそこまでマイケル・ジャクソンは誤解され続けたのだろう。  なぜあそこまでマス・メディアはマイケルを揶揄し中傷する記事を流し続けたのだろう。ミリオンセールを記録するいくつものアルバムの中で、マイケルが「戦争と不正によって子どもたちが傷つけられていることへの怒りと、子どもを癒すためにできることをする信念」を終生に渡って世界に発信し続けたのに、なぜ私のようなポップミュージックに特別の関心を持たなかった人間には、その声が届かなかったのだろうと改めて思うのだ。  80〜90年代の私のカリフォルニア在住中、小学生だった自分の子どもたちがマイケルの歌を歌い踊りに夢中なのを横目で見ながら、その歌詞が何を語っているかに気を払ったことはなかった。  10歳の息子が歌っているMan in the Mirror(1987)のその歌詞が、反戦と非暴力を歌っているとは思いもしなかった。Black and White(1991)がIt’s not about races. Just places. Faces.人種じゃない、場所だ、顔だ。もういい加減にしてくれと人種差別を訴えているとは思いもよらなかった。  1991年のアルバム「Dangerous」に収められたいくつもの曲が、マイケルの渾身のアメリカの戦争への抵抗であり、子どもの癒しこそが世界を癒すとの揺るがない彼の思想を歌いあげていることを、当時の私は知らなかった。彼と同じ考えから、仕事や活動で同じメッセージを私なりのやり方で発信し続けていたというのに。  私はポップミュージックには疎かったが、90年代はカリフォルニアで子どもの和太鼓グループを立ち上げて、週末毎に地域の音楽フェスティバルで子ども達と演奏していたから、ポップ音楽には近い所にいた。それなのに、マイケル・ジャクソンの時に激しく、時に悲しく、時に辛辣な変革への叫びは私には届かなかった。   冤罪事件の影響  ジョン・レノンが、ボブ・マリーが、スティービー・ワンダーが、社会の不正を見据え、変革のための行動を呼びかける曲を歌って広く支持されていたのに、彼らよりもはるかに明確な変革へのメッセージを80年代からずっと、数多くの曲の中で発信し続けてきたマイケル・ジャクソンへの一般の理解はそうではなかった。子ども向けの踊りと音楽、軽いポップミュージック、派手で軽薄なショービジネス、そんなマイケル像を多くの私たちは、マス・メディアから植え付けられていた。  そして1993年に少年への性虐待嫌疑が持ち上がった。事件は、マイケルがネバーランドに迎い入れたたくさんの子どもたちの一人、その父親が巨額の賠償金目当てに子どもに嘘の証言をさせた冤罪事件だった。  80年代を子どもの虐待分野で仕事をしていた私には、それが賠償金を狙った恐喝事件であることはかなり早い時期から推測できた。マイケルは無実を主張したが、裁判が7年かかることが予想され、音楽活動に多大な影響を及ぼすという弁護士の助言に従って、200万ドルの和解金を払うことで決着をつけた。それを虐待を隠蔽するための買収行為と報道したメディアは少なくなかった。 少年はその数年後、歯科医だった父親から麻酔薬を使われて嘘の証言をするよう誘導されことを公言した。その父親はマイケルの死後数ヶ月後に自殺している。2003年のもう一つの嫌疑は裁判で無実が証明された。   キッズ・ヨーガと「Billie Jean」の出会い  2014年、日本で子どものヨーガクラスを始めた私は、ALOHA KIDS YOGAと名付けたヨーガクラスの中で、一連のポーズを続けて行う太陽礼拝と月礼拝をHIP HOP音楽をバックにしてすることを構想した。その曲探しになんと3ヶ月もかけた。一連のヨーガをしながら、この曲は? あの曲は?と試みていたのだ。なかなか納得する曲に出会えなかった。ジャネット・ジャクソンの曲に合わせてヨーガをやってみて、うーん、今ひとつだなと思ったそのすぐ次に、意図せずしてマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」がかかった。曲に合わせて動きを始めると、すぐにこれだ、この音楽を待っていたんだと動く体が確信していた。1983年リリースの、ジャクソン5から独立したマイケルの自立の象徴のような曲、そしてその後の世界のヒップホップ音楽と踊りに最大の影響を与えることになる歴史的な曲。ビリー・ジーンに決まった。  以来ALOHA KIDS YOGA™では、毎回、月礼拝をマイケルのBillie Jeanで、太陽礼拝を安室奈美恵のQueen of Hip HopのBGMでやっている。ちなみにQueen of Hip Hopは2005年に日本で最初にヒットしたHip Hop曲、日本におけるポップミュージックの歴史を刻んだ曲である。(アロハキッズヨーガについては、本誌2017年10月号・多様性の今3「脳神経多様性と自閉症スペクトラム」及び、本誌2018年2月号・多様性の今7「アロハはいのちの多様性を讃える言葉」を参照  http://empowerment-center.net/aloha-kids-yoga/・・・

「ALOHA」はいのちの多様性を讃える言葉

月刊「部落解放」連載Diversity Now第7回 2018年2月号掲載 編集部の許可のもとに転載 森田ゆり(作家) 「アロハ」という言葉。ハワイの挨拶として世界中の人に知られていますが、本来のハワイ語のアロハは挨拶にとどまらない奥深い意味を持っています。ハワイ先住民の人たちは、それを彼らの生き方と精神性を体現する言葉として大切にしてきました。 一九九三年一一月二三日、当時のアメリカ合衆国大統領クリントンは、ハワイ先住民への謝罪決議(公法一〇三-一〇五)に署名しました。その内容は、一八九三年一月一七日を、ハワイ王国転覆一〇〇年記念と認め、アメリカ合衆国がハワイ王国を転覆させ領土化したことに対して、先住ハワイアンに謝罪するというものでした。 アメリカ合衆国の植民地支配によって、先住ハワイアンは言語をはじめとする自分たちの文化の継承を断絶させられました。しかし一九七〇年代以降、ハワイアンの言語と伝統文化の復活が活発に展開しました。一九七八年にはハワイ語を英語と並ぶ州の公用語とする州法が制定されました。 アンティ・ピラヒ・パキの詠唱 ハワイアンの教育者・精神的リーダーのアンティ・ピラヒ・パキ(パキ叔母さん)(一九一〇-一九八五)は、一九七〇年八月に開催された「二〇〇〇年へ向けたハワイ知事会議」で、壇上のパネリストたちがアロハの定義を論じている時に、聴衆のなかから立ち上がり、まずアロハの精神を保持し続けて来たクプナ(elder 先達)たちに感謝を捧げた上で、次のアロハの詠唱を発表しました。 Oli Aloha アロハの詠唱 Akahai e na Hawai   ハワイの人々よ、思いやりを Lokahi a kulike 助け合うことでハーモニーが生まれ ‘Olu’olu ka manao 心を明るく保ち Ha’aha’a kou kulana 謙虚さを忘れずに Ahonui a lanakila これらを忍耐強く保持すれば生命は光に満ち溢れる (発音は、http://www.realhula.com/aloha-hawaii.html) ちなみに語源は、「ALO-アロ」は「~の前に」、「HA-ハ」は「聖なる呼吸、魂」。あなたは聖なる息の前にある。 参加者は深く心を揺さぶられ、多くが目に涙を浮かべていました。それは一〇〇年間にわたって、蔑まれ、否定され続けてきたハワイアンとしてのアイデンティティを取り戻した喜びの瞬間でもありました。さらにパキ叔母さんは「世界の平和を求める人々はやがて、ハワイに目を向けるでしょう。なぜなら、ハワイにはその鍵があるからです。その鍵こそが『アロハ』です」と予言しました。 以来、この詠唱はハワイアンの伝統的アロハスピリットを伝える唄としてハワイアンの間だけでなく広く知られるようになりました。 ピラヒ・パキは一九一〇年にマウイ島のラハイナで生まれました。ハワイアンの言語と文化が最も抑圧、否定された時代でした。しかし彼女の祖父、父たちは日々の暮らしのなかでそれを見失うことはありませんでした。成人したパキに一人の老人との出会いがありました。「あなたが来るのを待っていたよ」と老人は言い、さらに「私が持つ全てをあなたに授けよう。それを受け取りたいか?」と聞きました。パキは「NO」と答えたといいます。老人は彼女の手をとり祝福しました。その時彼女はまるで全身に電気が走ったようなショックを感じました。彼女はMANA(魂)を受け取ったのです。その時から彼女は失われつつあった先住ハワイアンの言葉と文化の保持と再興に尽くすことになります。 多様性を誇るハワイの文化 ハワイ諸島は、アメリカでも最も民族多様性が複雑であることで知られています。前大統領のブラク・オバマがハワイでケニア出身の父と白人のアメリカ人の母との間に生まれ育ったように、ハワイ人、ポルトガル人、中国人、韓国人、ベトナム人、白人および日本人を含む混合民族グループは全体の四分の一です。ハワイでは混血をハパと呼び、ハパ文化を誇りにしています。 最大の人種グループはアジア系(フィリピン、日系、中国系、韓国系、ベトナム)で約四〇%。先住ハワイアンはカマアイナと敬意を持って呼ばれ一〇%を占め、白人はハオリと呼ばれ、ハワイ人口の約四分の一です。 セクシュアリティの多様性においても、一九七二年に世界で最も早くに同性婚が合法化されたのはハワイ州でした。 ハワイ島でヨーガを教える 私は、二〇一二から一四年にハワイ諸島最南端のビッグアイランド・ハワイ島に住みました。 ハワイ島北部には、ハワイ諸島最高峰標高四二〇〇メートルのマウナ・ケア山がそびえています。マウナ・ケアはハワイ語の白い山の意味、冬になると山頂が雪で覆われるからです。古代より聖地としてハワイアンの祈りの儀式が行われて来ました。眼下で刻々と変化する雲海の色の流れを見ながら、ハワイアンの祈りと詠唱のリズムに身を委ねていると、ハワイアンの人々が伝統の言葉と祈りを保持し続けて来たことへの感謝で心が満たされます。 マウナ・ケア山への登り口にある町ワイメア、信号が一つしかない小さな小さな町が私の町でした。そこにTutuハウスがありました。tutuとはおばあちゃんという意味のハワイ語。そこでは、ヨーガや気功や太極拳、マッサージ、整体、ハワイアンの精神性、フラカヒコ(古典フラ)、マインドフルネス、発酵食品の作り方、環境問題や平和の活動などのワークショップが毎日開催されます。全て無料です。ワークショップを提供するほうもお金を徴収することはできません。 ここで、私は出会ったばかりの老女から「あなたヨーガのインストラクターにならない?」と声をかけられたのです。ヨーガは自分の健康のためにすでに五年ほど続けていましたが、インストラクターになるつもりはまるでありませんでした。しかしその不思議な老女の縁で、結局私はアメリカンヨガ連盟の認定インストラクターとなり、3ヶ月後にはTutuハウスで教え始めました。 ALOHAの教えに導かれたヨーガ 私の最初のクラスに来てくれたのは、九〇歳代から八〇歳代の高齢者たち。膝が曲がらない、転倒して腰を打った、車椅子から離れられない、メンタルがひどく落ち込んでいて自殺念慮がある方などに向けて私のヨーガクラスは始まりました。そのことは私のヨーガクラスの方向性を決めることになりました。 心身の不調に働きかけ、本来の生命力を引き出すエンパワメント・ヨーガ。ハワイアンはその本来の生命力をMANAと呼び、後に紹介する「光の器」の儀式の伝統を保っています。 教えることになってからは、どのようにヨーガクラスを構成するか、何をどう教えるか、私の頭と身体は寝ても覚めてもそのことでいっぱいになりました。こうして一ヶ月後にあらかたの基礎が出来上がったのがALOHA HEALING YOGAでした。 アンティ・ピラヒ・パキによるアロハの詠唱に埋め込まれた5つの叡智がこのクラスをガイドします。 ALOHAのAKAHAI 優しく、思いやりあるヨーガ。比較と競争をしません。自分の体と心に優しいヨーガです。そのために自分の体の声を聞けるようになってください。いつも自分の内、呼吸と身体に意識を集中します。 LOKAHIのユニティー、つながり。サンスクリット語の「YOGA」とはつながるという意味。「LOKAHI」と同義語です。自分の身体と心と思考と魂とがつながる。自分と大地(アイナ)と天(ラニ)とがつながる。 ‘Olu’Olu 誰もが幸せになるために生まれてきた。今を幸せに、明るい心を保持します。 Ha‘aha’a 謙虚さ 大地(アイナ)と天(ラニ)、自然への謙虚さを忘れません。 Ahonui いのちをケアするためには忍耐心と持続が不可欠。ヨーガを毎日する持続の心 このALOHAチャント詠唱で終わるALOHA・・・

アメリカ・インディアン運動リーダー デニス・バンクス・ナウ・カミック氏追悼

月刊「部落解放」連載Diversity Now第6回 2018年1月号掲載 編集部の許可のもとに転載 森田ゆり(作家) 現代のアメリカ・インディアンで最も広く知られている人物、デニス・バンクスが2017年10月29日、精霊世界に旅立ちました。80歳でした。アメリカの主要な新聞、TV始め多くのマス・メディアが彼の死を報じる記事を組みましたが、彼を過激派と色付ける報道も少なくありませんでした。例えばニューヨーク・タイムズ紙は2ページに及ぶ長い記事を載せましたが、その書き出しはこんな文でした。 「1968年にアメリカンインディアン運動を設立し、先住民への政府の対応と不正義の歴史に抗議してしばしば暴動を率いたデニス・バンクスがミネソタ州ローチェスターのマヨ病院で死亡した。」    デニスがウンデドニー占拠に代表される政府の腐敗に抗議する直接行動を率いたのは1968年から76年までの7年間で、その後の彼は死の直前まで40年以上にわたって、教育活動と自然環境運動と非暴力の行進とラン(走行)による若者の精神性の涵養を世界を舞台に精力的に展開し、リードし続けたのですが、そのことに言及するマス・メディアはほとんどありませんでした。 サンフランシスコをベースにするオンライン・ビデオ・ニュース局のアルジャジーラ・メディア・ネットワーク(AJ+)は世界最大のオンライン・映像ニュース局の一つとして注目されていますが、10月30日配信のデニス追悼の1分55秒の短いニュースはかなり公平なものでした。以下に文字化しました。 /www.facebook.com/ajplusenglish/videos/1074991595975680/ 「『何もしないでいることは選択肢に無い』とのデニスの言葉。 デニス・バンクスについては3つのことを知らなければならない。 1、バンクスは先住アメリカ人への虐待の歴史と貧困にあえぐインディアンの現実を広く知らせるために、1968年AIM(アメリカ・インディアン・ムーブメント)を共同設立した。当時アメリカ・インディアン家族の3分の1が貧困暮らしだった。 彼は1973年にサウスダコタ州ウンデドニーでの71日間のAIMメンバーら武器を持った占拠を率いた一人だった。そこは83年前の1890年に300人以上の男、女、子どもが連邦騎兵隊によって虐殺された所だ。『先住アメリカ人がここウンデドニーで武器に訴えなければならないのは、何かおかしいことが起きているに違いないとアメリカ中の人が気づき、先住民が今も生きていることを知っただろう』(デニス・バンクスの言葉) 裁判官は政府による誤った対応があったとの理由で、占拠を率いたバンクスをはじめとするリーダーたちを無罪にした。 2、バンクスはたくさんの行進、抗議、占拠を指揮した。そのひとつが、政府によるおびただしい条約違反に抗議したワシントンDC連邦インディアン局の6日間占拠だ。その結果ニクソン政権は条約を見直すことを約束した。彼は先住民の土地、狩猟、漁業の権利を訴えた。『私たちは大地そのものを守るために行動する』とバンクス。 3、バンクスは生涯を通じて政治行動を続けた。2016年彼はノースダコタ州のスタンディング・ロックで、ダコタ・アクセス・石油パイプラインに対する抗議に参加した。『人として当たり前の生活を求める我々の闘いは終わることはない。不正義をただす闘いは決して終わらない。我々インディアンのドラムの音が止むことはない。』 」 カリフォルニア州の現知事ジェリー・ブラウンは、デニスの死後7日目に知事としての公式の長文メッセージを出した。 「デニス・バンクスは1937年4月12日にミネソタ州のリーチ湖インディアン居留地で生まれた。アメリカが「カウボーイとインディアン」のロマンチックなイメージで過去を演出していた頃、バンクスは、インディアンに対して残酷にして永続的な影響を与えた植民地主義の下で成長した。家族はバラバラになり、貧困とアルコール中毒は収奪された人々を苦しめた。オジブワ族に残された文化をも破壊することを目指した政府の「インディアン学校」で虐待を受けながら育った後、青年バンクスはつまらない軽犯罪で刑務所行きになった。これらは、彼の世代の先住アメリカ人の人生に共通する惨状だった。   かつて西洋の作家ゼイン・グレイは先住民のことを「消えゆく人々」と称したが、デニス・バンクスは違った。刑務所時代の仲間のクライド・ベルコートとともにAIMアメリカインディアンムーブメントを1968年に設立して以来、バンクスは活動家としての見事な能力を発揮して、先住アメリカ人についてのアメリカ人一般の意識を完全に変えることに大きな役割を果たした。彼の初期の方法は荒っぽくて、時には法の外に身を置かざるをえないこともあった。1976年、当時のカリフォルニア州の知事として、私は彼が1973年のサウスダコタ州カスターでの抗議行動に関する容疑を逃れるための亡命を与えるという光栄な機会を得た。私はその決定を極めて慎重に考慮した上で下した。その抗議行動がインディアンの悲劇的な歴史と状況を変えようとして起きたことを認識したからだった。 カリフォルニア州の保護の元でバンクスはDQ大学、州の初めてのインディアン部族による大学の総長を勤めた。 彼のように、一人生の間に、こんなにもたくさんの変化をもたらし、こんなにも広大な意識変化を起こした活動家は他にいるだろうか。デニス・バンクスの死は私にとってあまりに大きな悲しみである。新しい世代のインディアンたちが、アメリカの先住の人々の権利の承認を求めて、彼の意志を継いでいかれることを願ってやまない。     尊敬の心の内に   ジェリー・ブラウンJR 」  私は1979年に、デニスがカリフォルニア州のインディアンのためのDQ大学の総長をしていた頃に、彼の企画するインディアン・セレモニーや先住民の国際会議などに参加する中で出会いました。民主党のブラウン知事の保護の元にカリフルニアにいたデニスは、その後、知事選で新たに選ばれた共和党の知事がデニスを保護しないことを明言したため、政権が交代する前夜、カリフォルニを出て、ニューヨーク州北方カナダとの国境のオノンダガ6カ国連合自治区に保護を求めました。 オノンダガで暮らし始めてしばらくした頃、デニスから私の家に突然の電話があり、彼の半生を書いて日本語で出版して欲しいと頼んできました。その時から5年間かけてわたしは波乱万丈の人生を生きてきたデニスの半世記を書きました。その仕事は、デニスが語り、わたしが書き、共著として出版した「聖なる魂:現代アメリカ・インディアン運動のリーダーの半生」(朝日新聞社)として結実し、1988年に朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞を受賞しました。その年、デニスとわたしは日本各地をサイン会と講演をしてまわり、同時に彼はアメリカ・インディアンの若者を十数人引き連れて来日し、広島、長崎や各地の原発地を祈りながら巡る「聖なるラン」を率いました。週刊朝日は「インディアン旋風日本列島を駆け抜ける」と言ったような見出しでグラビアを組み、その後長く続く日本とインディアンとの平和と正義のための交流が始まりました。    デニスとともにした時間の中で私の知ったデニス・バンクスを彼の目、声、手の三つに分けてお話しましょう。 デニス・バンクスの目 それは1978年の冬、カリフォルニア州デービス市の郊外にあるDQ大学で、初めてイニピ・セレモニー(スウェット・ロッジ儀式)に参加したときのことでした。儀式に使う20個以上の大きな石が真っ赤になるまで焼けるのを、火のそばで待っていた私たちを前に、デニスは石について語りました。何万年もの地球の命をじっと見守ってきた石。賢者の石。聖なる石。人間をはるかに超える叡智を持った生き物としての石。石のいのちを語るデニスの目の深さに惹きつけられました。   石への敬意を語る彼の目は、広い空の果て、悠久の時に向けられていました。そのおごそかな話の最後にはひょうきんなジョークを言い、皆を笑わせた時は、リスのようなクリクリした目でした。なんて深くて動きのある目をしている人だろう、それが私のデニスの最初の印象でした。    その後、様々な場面でのデニスを思い出すと、いつもまず彼の表情豊かな目が浮かびます。マイクを持って権力の不正を糾弾する怒りの目。小さな子どもを膝に乗せて背中をかがめて話しかける暖かい目。仲間のAIMリーダー達と談笑している時の豪快に大笑いする細く光る目。手品をして皆をきょとんとさせた時の嬉しそうにおどけた目。そしてデニスを慕って世界中から集まってくる若者一人一人に向ける優しい目。 デニス・バンクスの声 久しぶりに再会した時のデニスの「ホーレ! 〇○さん」と心から嬉しそうな大声を上げて両手を広げるデニスのあの声を、私だけでなく、きっと世界中のデニスの友人達が思い出すことでしょう。目と同時に声も豊かな表情を持っていました。   特にイニピ・セレモニーをリードするデニスの声は祈りの言葉とともに私の体内に住み着いたかのようです。 デニスと共著の「聖なる魂」のあとがきに書いた彼の祈りの声を、少し長くなりますが引用しましょう。 「日本から来たばかりのデニスの客人と一緒に、私はDQ大学でのイニピ儀式に招待された。(中略)焼け石の熱気が闇の中に充満する。この闇が母なる大地の“子宮”の中なのである。母の胎内に帰って人々はパイプをまわし、祈りの唄を歌う。まもなく熱した石の山の上に水がかけられる。肌を刺し貫くように熱い熱気が全身を覆い、顔中を圧迫する。吸い込む空気が鼻孔を刺す。汗が滝のごとく流れ出る。その肉体的苦痛に耐えながら、歌が続けられる。祈りが続く。そうするうちに不思議な一体感が闇の中に生まれる。   今、ここに座っている他の人々と自分との強いつながりが、涙が出るほど強く胸に迫ってくるのである。大地と私との一体感が全身で感じられるのである。   イニピ儀式はすでにもう何度が体験していたが、その日、デニスはその客人のために、デニスの語る祈りを日本語に訳してほしい、と闇の中で私に言った。 『偉大なる精霊よ。母なる大地よ。四本足の者たち、二本足の者たち、翼を持つ者たちを守り給え。』   一節一節ずつ訳していった。しだいに祈りの言葉に速度が加わる。デニスの言葉、私の言葉、デニスの言葉、私の言葉と、リズムがつき始め、自分でも信じられないほどの的確な訳語が、美しい詩を詠んでいるかのごとくにするすると口をついて出てきた。もはや通訳をしているという意識は私のうちから消え去り、デニスの祈りのリズムにのって、私は憑かれたように唄を歌っている感覚だった。」   暗闇の中で時に静かにおごそかに、時に救いを求めて苦悩を絞り出すように、そして時に感動と感謝に満ちた声。1980年秋のあのイニピセレモニーでのデニスの祈りの声が今は静かに思い出されます。 デニス・バンクスの手 2003年の夏、20年ぶりにサンダンス・セレモニーに参加しました。 ミネソタ州の南西の端、サウスダコダ州との州境の小さな町、パイプストーンでその儀式は8月の灼熱の太陽の下で4日間行われました。サンダンス場は聖なるパイプを作るやわらかい石、パイプストーンの採石場を中心にした広大な乾いた草原に作られていました。 円形広場には四つの方向を示す赤、黒、白、黄の旗が風になびき、地面にはセイジの葉がしきつめられ、すがすがしい匂いを放っていました。会場の外側には青、赤、緑の色とりどりの大きなティピ(円錐形の平原インディアン特有の伝統的住居)がいくつも立ち、スウェットロッジがあり、石を熱する火が燃えている。そこには太陽の動きとともに進行するゆったりとした時間が流れていました。   ・・・

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