アメリカ・インディアン運動リーダー デニス・バンクス・ナウ・カミック氏追悼

月刊「部落解放」連載Diversity Now第6回 2018年1月号掲載 編集部の許可のもとに転載

森田ゆり(作家)

現代のアメリカ・インディアンで最も広く知られている人物、デニス・バンクスが2017年10月29日、精霊世界に旅立ちました。80歳でした。アメリカの主要な新聞、TV始め多くのマス・メディアが彼の死を報じる記事を組みましたが、彼を過激派と色付ける報道も少なくありませんでした。例えばニューヨーク・タイムズ紙は2ページに及ぶ長い記事を載せましたが、その書き出しはこんな文でした。

「1968年にアメリカンインディアン運動を設立し、先住民への政府の対応と不正義の歴史に抗議してしばしば暴動を率いたデニス・バンクスがミネソタ州ローチェスターのマヨ病院で死亡した。」
  
デニスがウンデドニー占拠に代表される政府の腐敗に抗議する直接行動を率いたのは1968年から76年までの7年間で、その後の彼は死の直前まで40年以上にわたって、教育活動と自然環境運動と非暴力の行進とラン(走行)による若者の精神性の涵養を世界を舞台に精力的に展開し、リードし続けたのですが、そのことに言及するマス・メディアはほとんどありませんでした。

サンフランシスコをベースにするオンライン・ビデオ・ニュース局のアルジャジーラ・メディア・ネットワーク(AJ+)は世界最大のオンライン・映像ニュース局の一つとして注目されていますが、10月30日配信のデニス追悼の1分55秒の短いニュースはかなり公平なものでした。以下に文字化しました。
/www.facebook.com/ajplusenglish/videos/1074991595975680/
「『何もしないでいることは選択肢に無い』とのデニスの言葉。
デニス・バンクスについては3つのことを知らなければならない。

1、バンクスは先住アメリカ人への虐待の歴史と貧困にあえぐインディアンの現実を広く知らせるために、1968年AIM(アメリカ・インディアン・ムーブメント)を共同設立した。当時アメリカ・インディアン家族の3分の1が貧困暮らしだった。
彼は1973年にサウスダコタ州ウンデドニーでの71日間のAIMメンバーら武器を持った占拠を率いた一人だった。そこは83年前の1890年に300人以上の男、女、子どもが連邦騎兵隊によって虐殺された所だ。『先住アメリカ人がここウンデドニーで武器に訴えなければならないのは、何かおかしいことが起きているに違いないとアメリカ中の人が気づき、先住民が今も生きていることを知っただろう』(デニス・バンクスの言葉)
裁判官は政府による誤った対応があったとの理由で、占拠を率いたバンクスをはじめとするリーダーたちを無罪にした。

2、バンクスはたくさんの行進、抗議、占拠を指揮した。そのひとつが、政府によるおびただしい条約違反に抗議したワシントンDC連邦インディアン局の6日間占拠だ。その結果ニクソン政権は条約を見直すことを約束した。彼は先住民の土地、狩猟、漁業の権利を訴えた。『私たちは大地そのものを守るために行動する』とバンクス。

3、バンクスは生涯を通じて政治行動を続けた。2016年彼はノースダコタ州のスタンディング・ロックで、ダコタ・アクセス・石油パイプラインに対する抗議に参加した。『人として当たり前の生活を求める我々の闘いは終わることはない。不正義をただす闘いは決して終わらない。我々インディアンのドラムの音が止むことはない。』 」

カリフォルニア州の現知事ジェリー・ブラウンは、デニスの死後7日目に知事としての公式の長文メッセージを出した。

「デニス・バンクスは1937年4月12日にミネソタ州のリーチ湖インディアン居留地で生まれた。アメリカが「カウボーイとインディアン」のロマンチックなイメージで過去を演出していた頃、バンクスは、インディアンに対して残酷にして永続的な影響を与えた植民地主義の下で成長した。家族はバラバラになり、貧困とアルコール中毒は収奪された人々を苦しめた。オジブワ族に残された文化をも破壊することを目指した政府の「インディアン学校」で虐待を受けながら育った後、青年バンクスはつまらない軽犯罪で刑務所行きになった。これらは、彼の世代の先住アメリカ人の人生に共通する惨状だった。
 
かつて西洋の作家ゼイン・グレイは先住民のことを「消えゆく人々」と称したが、デニス・バンクスは違った。刑務所時代の仲間のクライド・ベルコートとともにAIMアメリカインディアンムーブメントを1968年に設立して以来、バンクスは活動家としての見事な能力を発揮して、先住アメリカ人についてのアメリカ人一般の意識を完全に変えることに大きな役割を果たした。彼の初期の方法は荒っぽくて、時には法の外に身を置かざるをえないこともあった。1976年、当時のカリフォルニア州の知事として、私は彼が1973年のサウスダコタ州カスターでの抗議行動に関する容疑を逃れるための亡命を与えるという光栄な機会を得た。私はその決定を極めて慎重に考慮した上で下した。その抗議行動がインディアンの悲劇的な歴史と状況を変えようとして起きたことを認識したからだった。

カリフォルニア州の保護の元でバンクスはDQ大学、州の初めてのインディアン部族による大学の総長を勤めた。
彼のように、一人生の間に、こんなにもたくさんの変化をもたらし、こんなにも広大な意識変化を起こした活動家は他にいるだろうか。デニス・バンクスの死は私にとってあまりに大きな悲しみである。新しい世代のインディアンたちが、アメリカの先住の人々の権利の承認を求めて、彼の意志を継いでいかれることを願ってやまない。    
尊敬の心の内に  
ジェリー・ブラウンJR 」 

私は1979年に、デニスがカリフォルニア州のインディアンのためのDQ大学の総長をしていた頃に、彼の企画するインディアン・セレモニーや先住民の国際会議などに参加する中で出会いました。民主党のブラウン知事の保護の元にカリフルニアにいたデニスは、その後、知事選で新たに選ばれた共和党の知事がデニスを保護しないことを明言したため、政権が交代する前夜、カリフォルニを出て、ニューヨーク州北方カナダとの国境のオノンダガ6カ国連合自治区に保護を求めました。

オノンダガで暮らし始めてしばらくした頃、デニスから私の家に突然の電話があり、彼の半生を書いて日本語で出版して欲しいと頼んできました。その時から5年間かけてわたしは波乱万丈の人生を生きてきたデニスの半世記を書きました。その仕事は、デニスが語り、わたしが書き、共著として出版した「聖なる魂:現代アメリカ・インディアン運動のリーダーの半生」(朝日新聞社)として結実し、1988年に朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞を受賞しました。その年、デニスとわたしは日本各地をサイン会と講演をしてまわり、同時に彼はアメリカ・インディアンの若者を十数人引き連れて来日し、広島、長崎や各地の原発地を祈りながら巡る「聖なるラン」を率いました。週刊朝日は「インディアン旋風日本列島を駆け抜ける」と言ったような見出しでグラビアを組み、その後長く続く日本とインディアンとの平和と正義のための交流が始まりました。
  
デニスとともにした時間の中で私の知ったデニス・バンクスを彼の目、声、手の三つに分けてお話しましょう。

デニス・バンクスの目

それは1978年の冬、カリフォルニア州デービス市の郊外にあるDQ大学で、初めてイニピ・セレモニー(スウェット・ロッジ儀式)に参加したときのことでした。儀式に使う20個以上の大きな石が真っ赤になるまで焼けるのを、火のそばで待っていた私たちを前に、デニスは石について語りました。何万年もの地球の命をじっと見守ってきた石。賢者の石。聖なる石。人間をはるかに超える叡智を持った生き物としての石。石のいのちを語るデニスの目の深さに惹きつけられました。
 
石への敬意を語る彼の目は、広い空の果て、悠久の時に向けられていました。そのおごそかな話の最後にはひょうきんなジョークを言い、皆を笑わせた時は、リスのようなクリクリした目でした。なんて深くて動きのある目をしている人だろう、それが私のデニスの最初の印象でした。 
 
その後、様々な場面でのデニスを思い出すと、いつもまず彼の表情豊かな目が浮かびます。マイクを持って権力の不正を糾弾する怒りの目。小さな子どもを膝に乗せて背中をかがめて話しかける暖かい目。仲間のAIMリーダー達と談笑している時の豪快に大笑いする細く光る目。手品をして皆をきょとんとさせた時の嬉しそうにおどけた目。そしてデニスを慕って世界中から集まってくる若者一人一人に向ける優しい目。

デニス・バンクスの声

久しぶりに再会した時のデニスの「ホーレ! 〇○さん」と心から嬉しそうな大声を上げて両手を広げるデニスのあの声を、私だけでなく、きっと世界中のデニスの友人達が思い出すことでしょう。目と同時に声も豊かな表情を持っていました。
 
特にイニピ・セレモニーをリードするデニスの声は祈りの言葉とともに私の体内に住み着いたかのようです。
デニスと共著の「聖なる魂」のあとがきに書いた彼の祈りの声を、少し長くなりますが引用しましょう。

「日本から来たばかりのデニスの客人と一緒に、私はDQ大学でのイニピ儀式に招待された。(中略)焼け石の熱気が闇の中に充満する。この闇が母なる大地の“子宮”の中なのである。母の胎内に帰って人々はパイプをまわし、祈りの唄を歌う。まもなく熱した石の山の上に水がかけられる。肌を刺し貫くように熱い熱気が全身を覆い、顔中を圧迫する。吸い込む空気が鼻孔を刺す。汗が滝のごとく流れ出る。その肉体的苦痛に耐えながら、歌が続けられる。祈りが続く。そうするうちに不思議な一体感が闇の中に生まれる。
 
今、ここに座っている他の人々と自分との強いつながりが、涙が出るほど強く胸に迫ってくるのである。大地と私との一体感が全身で感じられるのである。
 
イニピ儀式はすでにもう何度が体験していたが、その日、デニスはその客人のために、デニスの語る祈りを日本語に訳してほしい、と闇の中で私に言った。

『偉大なる精霊よ。母なる大地よ。四本足の者たち、二本足の者たち、翼を持つ者たちを守り給え。』
 
一節一節ずつ訳していった。しだいに祈りの言葉に速度が加わる。デニスの言葉、私の言葉、デニスの言葉、私の言葉と、リズムがつき始め、自分でも信じられないほどの的確な訳語が、美しい詩を詠んでいるかのごとくにするすると口をついて出てきた。もはや通訳をしているという意識は私のうちから消え去り、デニスの祈りのリズムにのって、私は憑かれたように唄を歌っている感覚だった。」
 
暗闇の中で時に静かにおごそかに、時に救いを求めて苦悩を絞り出すように、そして時に感動と感謝に満ちた声。1980年秋のあのイニピセレモニーでのデニスの祈りの声が今は静かに思い出されます。

デニス・バンクスの手

2003年の夏、20年ぶりにサンダンス・セレモニーに参加しました。

ミネソタ州の南西の端、サウスダコダ州との州境の小さな町、パイプストーンでその儀式は8月の灼熱の太陽の下で4日間行われました。サンダンス場は聖なるパイプを作るやわらかい石、パイプストーンの採石場を中心にした広大な乾いた草原に作られていました。

円形広場には四つの方向を示す赤、黒、白、黄の旗が風になびき、地面にはセイジの葉がしきつめられ、すがすがしい匂いを放っていました。会場の外側には青、赤、緑の色とりどりの大きなティピ(円錐形の平原インディアン特有の伝統的住居)がいくつも立ち、スウェットロッジがあり、石を熱する火が燃えている。そこには太陽の動きとともに進行するゆったりとした時間が流れていました。
  
広場の中央に大きなコットンウッドの木が立ち、ダンサーたちはその木を中心に、真夏の烈しく燃える太陽の下で、丸四日間、食べ物を断って肉体と精神力の限りを尽くして踊り続けます。生命のエネルギーの復活を祈り、大地の恩恵に感謝をささげるのです。
  
サンダンスは招待がないと参加できません。敷地内での写真撮影は厳禁で、観光気分の参加は厳しく拒否されます。参加者も円の外側で、ダンサーとともにひたすら地を踏み踊り、天を仰ぎ太陽に挨拶を送ります。

サンダンスの圧巻は、男性ダンサーたちが自分のからだの肉片を太陽に捧げる踊りと儀式です。ダンサーは儀式の導師の助けのもとに胸の肉をトナカイの角でひっかけ、それをロープで命の木に結びつける。そして太鼓の音に合わせて踊りながら、自分のからだを後ろに引き、命の木に結んだ肉をひっぱり、ついにはピーンと肉片がはがれる。連日の断食と炎天下で踊り続けて弱っているダンサーたちは、自分のからだを一気に引っ張る力がなく、何度もひっぱらなければなりません。ダンサーは皆、中央の命の木に近寄り、木の幹に手を置き、木から力をもらうのです。

4日目の最後の日、デニスが疲労困憊した身体に強靭な精神力で踊り続けた後、木に手をかけ、じっと木の命を感じていました。顔を地面に向けて目を閉じ、とても長い時間そうしていました。デニスと木をつなぐ手。その手の中を大地のいのちが流れこむのを私は感じていました。

デニスの手の表情を感じることは他にも何度もありました。パイプセレモニーでパイプにタバコ詰める時の手。生まれてくる娘のために平原インディアンの伝統的な赤ちゃんのゆりかごを柳の木となめし皮とで作っていた時のこまめな手。自分の長い三つ編みに櫛を入れる時の手。手品をする時の繊細な手。目と、声と同じように、手もまた豊かな表情をしていたのでした。

「聖なる魂」を書くために私は実に多様なところに足を運びました。聞き取りの作業は何度も中止しなければならず、5年間にも及んだのは、彼が、亡命、地下潜伏、逮捕、投獄の嵐の日々を潜り抜けていたからです。あの本を書く仕事は「書く」というよりも「行動する」ことにほかなりませんでした。わたしたちはあるときは、紅葉で美しく色付いたカナダとの国境のインディアン自治区オノンダガ国の亡命先でFBIの車が国境の州道の脇に一日中停車しているのを横目に、あるときは灰色の雪に閉ざされた極寒のスー・フォール州刑務所内の図書室で、あるときは太陽が輝く南カリフォルニアのハリウッド俳優の豪奢な邸宅の芝生で作業をしました。

「聖なる魂」を書くプロセスだけでも一冊の本が書けるねと言ってデニスは笑ったものでした。
「聖なる魂」が賞を取った時、その選考委員の人たちの座談会が当時の「朝日ジャーナル」に載っていました。「しかし、自分を『聖なる魂』というのはなんか大仰だね」とある選考委員が言っていました。私はそれを読んで「ああ、この人たちは何もわかってくれなかったんだ」と寂しい気持ちになりました。本の中で、デニスを「聖なる魂」とはただの一度も書いていません。インディアンの人たちは、大地、空、海、川、動物、植物、を「聖なる」と呼びますが、人間を指して「聖なる」と言うことは極めて稀です。彼らの思想の中では、人間とは聖なる自然の命たちのお世話係に過ぎない存在だからです。
「聖なる魂」とは何か、この本を読んで答えを探してください。

サンダンス会場に行くために降り立ったスー・フォールの飛行場からは、高い壁と有刺鉄線に囲まれた州立刑務所が見えました。騒乱罪などの責任を問われたデニスが10年間の逃亡生活に終止符を打って1年弱の懲役刑を受けた場所です。1985年にわたしは雪に閉ざされたこの刑務所の中に通って、デニスへのインタビューを続けました。彼が日本での若き米兵時代に食べたコロッケが無性に食べたいというので、コロッケを作ってテープレコーダーの下に隠して刑務所のセキュリティーを通過しました。そのコロッケを手でつかんで食べる彼の手は、茶目っ気のある嬉しそうなそして美味しそうな表情をしていました。

「聖なる魂」の物語はこの州立刑務所をデニスが出る日で終わっています。その日デニスは次のような誓いをしました。

「          誓い
いつの日か、わたしは鷲を捕らえられるだけの知恵と
バッファローに手を差し出せるほどの賢さを身につけるだろう

歳月を超えて、わたしは聖なるパイプを携えていこう
セイジとスイート・グラスと杉の葉もいっしょに
民人を浄化するロッジを建てよう
遠い山から岩を運んでこよう
コットン・ウッドの木を探そう

わたしの子どもたちはサンダンスの唄を歌う
大地に生きるすべてのものへの讃歌を歌う

子どもたちは祖先からの言葉を語る
そして四つの方角の意味を理解する

今日、わたしはその旅を始める
旅の道すがら、わたしは疲れ、弱り、倒れるかもしれない
しかしわたしは立ち上がる
兄弟姉妹の力に支えられてわたしは立ち上がる
そして聖なる赤い道を歩き続けるのだ
いつの日か、学んだ知識と賢さを、わたしは若い世代に引き継ごう
そのように生き、そして死ぬことをわたしは選んだ
だから迷うことなく、ただ山羊の精霊に導かれて歩き続けよう

1985年 ダコタ領土内  アメリカ国刑務所にて   デニス・バンクス」
(「聖なる魂」デニス・バンクス 森田ゆり共著  朝日新聞社 より引用)

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