相模原障害者殺傷事件と安倍政権の「富国強兵」政策

森田ゆり
月刊「部落解放」2019年9月号 多様性の今 24

障害者殺傷事件から3年

2016年7月26日に相模原障がい者施設の殺傷事件が起きてから3年になる。この原稿を私はちょうど三回忌となる日に書いている。事件で亡くなられた方々を心から悼み、心身の深刻なトラウマを負って今も苦しむ多くの人々の回復を祈ります。

事件の加害者植松聖(当時26歳)は、重度の障がい者は国家にとって迷惑な存在で、生きている価値が無いとの主張を衆議院議長と安倍首相宛に直訴した上で、自分が働いていた施設入居者の障がいの重度な人を選んで19人殺し26人に傷害を負わせた。当時で戦後最大の殺傷事件だった。

植松は国家にとって負担でしかない重度障がい者の抹殺プランを自筆で事細かに書き、国の立法府と行政府の長が自分の考えに理解を示してくれるはずだと本気で信じて、議長公邸と自民党本部前に座り込み、まるで総大将たちに進言する一兵卒のように注進状を手渡した。その中で「日本と世界平和のためにいつでも作戦を実行するつもりだ」と宣言し、自首後は「2年以内に釈放して5億円の金銭を支援し自由な人生を送らせる」などの条件を国から確約してほしいと要求している。その5ヶ月後にその文書の記述通りに実行した。

植松のこの行動は彼が精神障害者だったからではなく、「一億総活躍社会」のスローガンを国の目玉方針として掲げる現政権に彼の身勝手な優生思想との親和性を見出したからだ。

 

安倍政権が掲げる富国強兵のスローガン

「女性が輝く一億総活躍社会」のキャッチフレーズ華々しく、2015年以来安倍政権は首相官邸の下に一億総活躍国民会議を設置し「ニッポン一億総活躍プラン」の閣議決定がされた。しかし「一億総活躍」と聞いた途端になんとも重い気分になったのは私だけだっただろうか。

活躍と云う言葉に「一億総〜」とつける発想がたまらなく嫌だ。すべての日本人誰もが活躍しなくていいではないか。バリバリ仕事して活躍したい人、したくない人。キャリアを積み上げたい人、子育てに専念していたい人。生命力を外に向けて放出したい時期、内に向けて凝縮させたい時期。人それぞれ、マイペース、多様でいいのではないですか。そもそもみんなそんなにいつも頑張って、活躍しなくてもいい。

女性が輝く一億総活躍社会って、一見、女性に寄り添った政策のように見えなくはないが、その女性政策の実態とは、少子化による労働人口の減少に対応するため、女性たちを非正規雇用の低賃金労働の担い手として駆り出すための様々な方策に過ぎなかった。派遣、パート、アルバイトなどの非正規雇用の67.8%は女性が占めているのだ。(総務省統計局平成29年2月)

しかし早くも2016年には自民党内の女性議員からもこれは女性政策ではないとの批判が出て、政府が「女性も男性も、若者も老人も〜〜一億総活躍」と書き換えたために、キャッチコピーは、まるで戦争中の「一億総動員体制」のように誰も彼も死ぬまで働けと呼びかけているかに読めて肌寒くなる。

戦争中は「一億総玉砕」とまで信じ込まされ、戦後は「一億総懺悔」、「一億総中流化」と、一体いつまでこの国は「一億みんないっしょ」幻想にしがみついていたいのだろうか。「違い」は「間違い」とみなされてしまい、「みんな一緒に安心安全」の誇大幻想から抜け出すことができなくて、わたしたちの国は、いつまでたっても多様性を受け入れることが困難なのだ。

植松聖が襲った人たちは一億総活躍社会には入れない人々だ。かつて、一億総動員に同調できない人は「非国民」とされ排除されたように、国家の旗振りの元で誰も彼も働けと言っているかのようなこのスローガンに合わない人は生きるに値しないことにされてしまう。

たとえ忙しく働いて活躍していなくても、たとえ社会や経済に目に見える形で貢献することがなくても、あの施設の中の人々の命は一つ一つみな輝いていた。忙しく動き回っているから人は輝くわけではない。ベッドの上で寝返りもままならない人が発する小さな声や仕草やそしてただそこにいてくれることが周りの人を微笑ませたり、ホッとさせたりするときその人は輝く。その人の存在が誰か他の存在に暖かさを与える時、命は輝く。人の命はただ存在するだけで尊く輝いている。そのことを理念やきれいごととしてではなく、心から共感できる人を増やしていくことこそが、多様性ダイバーシティの推進である。

「多様性とは、人は皆その価値において等しく尊いという人権概念を核にして、さらに人は皆違うからこそ尊いとの認識に立つ考え方である。」
(「多様性トレーニングガイド」森田ゆり著 解放出版2000年)より

 

れいわ新撰組の快挙

2019年7月21日の参議院選で、世界で初めて、寝たきりの重度障がい者が二人も国会議員に選出された。れいわ新選組の山本太郎代表が比例代表で獲得したダントツ最多の自分への票を二人へ振り分ける形で可能にした快挙だ。

全身の筋力が低下する難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」患者の舩後(ふなご)靖彦氏(61)と重度身体障害者の木村英子氏(54)の二人だ。舩後氏は「この瞬間が来たことに胸がいっぱい。弱々しく見える僕ですが、根性だけは人一倍。命がけなのですからこれからが勝負です」と喜びを伝えた。42歳でALSと告知され、今はほとんど体を動かせない。人工呼吸器や特殊な意思伝達装置を使い、看護・介護サービス会社副社長を務める。一方木村英子氏は生後8カ月の時、事故で頸椎(けいつい)を損傷し、脳性まひの診断も受け、移動手段である電動車椅子を操作する右手以外、体はほとんど動かない。生活のすべてに介助がいる。

安倍政権の強引な富国強兵政策や生産性価値観を反映した自民党議員の暴言がやまない国会で、過去6年間孤軍奮闘してきたのが山本太郎だ。彼は重度障がい者を国会に送り込むことで「人はただいるだけで尊い」との人権の本質論を尊重せざるを得ないように永田町のエリートたちの特権意識に激震を起こそうとしている。9月以降どんな国会答弁が展開するか、一気に興味が沸いてくるではないか。

 

精神障害と大量殺人に関連はない

筆者はこの4月に「体罰と戦争:人類の二つの不名誉な伝統」(かもがわ出版)を出版した。本はいくつものメディア媒体の書評欄で取り上げられ、さらにいくつかの取材を受けた。その一つの記者の言葉に唖然とした。

本の7章「ジェンダーと大量殺人:宅間守の場合」を取り上げて、「大量殺人を実行した宅間守と植松聖はどちらも精神病院に入院していたわけですが、、、」と記者は切り出した。宅間は警察から逃れるために精神病院にフェイク入院したことはあるが、彼が精神障害者でないことを、その本で丁寧に書いたのに、その記者は大量殺人と精神障害者を関連づけたがっていた。
マスコミのこんな安易なくくりで、精神障害者は犯罪を犯しやすいという偏見は広がる。

植松も精神病院に2週間措置入院になったが、精神病を病んではいなかった。精神障害者が殺人事件を起こすケースは統計的にも極めて少ないのである。

両者に共通する心理で注目を要することは、どちらも深い劣等感の痛みをその裏返しとしての力の弱い者への優越感で帳消しにする差別意識に苛まれていたことである。

 

優生思想の持ち主の低い自尊感情

植松の公判は2020年1月まで始まらないので、彼の内面についての情報は、獄中面会を続けているジャーナリストたちが発表している記述に限られている。RKB毎日放送(福岡市)報道記者の神戸金史は、6回に及ぶ植松へのインタビューの中でこう質問した。
「あなたは自分が役にたつ人間だと思っていますか」その質問に対して植松は「大して存在価値のない人間だと思っています」と答えた。しかし事件を起こしたことで自分が「少しは役に立ったかなと思う」と付け加えた。(「殺人実行者との対話 記者として、 障害児の父として(前編)」より)https://note.mu/tbsnews/n/n456bf8cc5964

植松は精神障害者ではないが、重度障害者は生きるに値しないどころが国にとって迷惑な存在という自分の考えを政府に認めてもらえると思い込み、彼らを一人でも多く抹殺する役目を果すことが国の役に立つことだと本気で信じて大量殺人計画を行動に移した人だ。その自分の考え方を表す「優性思想」という言葉があることも彼は知らなかったようだが、3年後の今もその正しさを主張している。

優生思想の持主とはおしなべて自尊感情の低さに苦しんでいる人物だ。自分は存在しているだけで充分尊く大切な人だと感じられないため、常に他者との比較で自分の大切さを自覚しようとする。自分は誰々よりは偉い、誰より上だとの優越感をいつも肥大させていると同時に、その裏腹に、自分はダメだ、自分の価値は低いとの劣等意識にさいなまれている。

植松は犯行を実行した神奈川県立の知的障害者施設、津久井やまゆり園で   犯行の半年前まで、3年あまり介護者として働いていた。それ以前は、自動販売機設置業や運送業など転職を繰り返していたから、介護の仕事に使命や意義を見出して就職したのではなさそうだ。

寝たきりの人たちの排泄の世話もしなければならない障がい者介護は重労働でその割に報酬の低い仕事である。そのような仕事に従事する自分への不甲斐なさは大きかっただろう。やまゆり園では入所者への暴行、暴言を繰り返し何度も指導を受けていたという。自分の活躍度の不全感に日々さいなまれていたに違いない。

前述の報道記者の神戸金史との面会で植松は、何度か排泄の世話のことに触れている。

「愛しているから殺さないでしょ? 糞の世話だってやってくれるよね?」

こんなクズはさっさと殺した方が良いでしょう。
(「殺人実行者との対話 記者として、 障害児の父として(前編)」よりhttps://note.mu/tbsnews/n/n456bf8cc5964 )

「自分が糞尿を漏らしベッドにしばられドロドロの飯を流されても、周りに大きな迷惑をかけ続けても生きたいと思いますか?誰だって死にたくありませんが、最低限度の自立は人間の義務であります。」

「お伺いしたいことですけど、神戸さんご自身が糞尿を垂らして周りに迷惑をかけても生きたいと思いますか」(「殺人実行者との対話 記者として、 障害児の父として(後編)」より https://note.mu/tbsnews/n/ne148b1471019

自分の排泄物の処理も介護者の世話になるしかない寝たきり障害者への侮蔑をぶつけるその言葉の言外に、介護の仕事への怒りとその仕事に携わる自分への劣等感と不甲斐なさとが感じられるのである。

宅間と植松に共通していたのは、自分に怒り、自分を貶め、自分を哀れに思わずにいられない自己卑下と自己嫌悪と劣等意識の心だ。

 

宅間守に見る暴力とジェンダー

宅間守は、2001年に大阪教育大学付属池田小学校に侵入し8人の子どもを刺し殺しその他の子どもと職員15人に重軽傷を負わせた。私はこの男の背後にジェンダーと暴力の影をみて、それを明らかにしたいと、彼の公判に通い、その報告を当時発行していたニュースレター「エンパワメントの窓」に連載した。その膨大な文章を約半分に整理して、この度出版した「体罰と戦争」の7章に収めた。

「公判での彼の証言の数々や公表された手記は、宅間の根深い劣等意識を表す言葉で満ちていますが、同時にその裏返しの、女性や弱い立場の人への差別意識の言葉も溢れているのです。

『コラッ雑民、コラッ二・三流大学出、コラッ下級公務員 (中略) コラッー コラッ雑民達よ、
ワシを下げすむな、ワシをアホにするな。おまえらに言われたない、おまえらに思われたない、お前らの人生よりワシの方が勝ちや。

処女と20人以上やった事、あまえらにあるか?ホテトル嬢50人以上とケツの穴セックス、おまえらやった事あるか?(中略) 歩いている女、スパッとナイフで顔を切って逃げた事あるか? ワシは全部、全部、おまえら雑民の二生分も三生分もいやそれ以上の事もやったのや。おまえら雑民の人生なんかやるより、大量殺人やって、死刑になるほうがええんや。

コラッ ホームレス おまえら、何にしがみついているんや。お前らは、動物や。ただ死ぬのをびびって、生き長らえている動物や。(後略) 』
(宅間の手記 消印平成15年6月11日)

深い劣等意識と強いエリート羨望を持つ宅間は、公判で「雑民」という言葉を好んで使い、ホームレス、在日韓国人、女性をさげすむ発言を繰り返しました。勝ち組になることを夢想し、しかし結局自分はいつも負け組みであることを認識しては、苛立ち、そのうっぷんを攻撃行動によって晴らす人生を送ってきました。」

「宅間の頭の中には大量殺人や大量強姦の幻想が渦巻いていました。暴行の数の多さが強さの誇示になると思っていたようです。たった8人の成果だったと悔しがる彼は、まるでビデオゲームで敵を一人でも多く倒すことで満足する単純なパワー信仰を持っていました。それは支配の快感とでもよべるものです。

人の優位に立つこと、とりわけ女の優位に立つことが男のあかしであると信じている宅間は、結婚相手、婚約相手を暴力で支配することに多大なエネルギーを注ぎました。最も執着した三番目の妻Aとの離婚をくつがえすことが不可能だとわかったとき、宅間はAを殺すことを考え始める。殺人は、もはや自分の下につなぎとめることができないAを支配し、所有する残された唯一の方法なのです。興信所を使ってAの職場を探すがみつからず、Aを殺すことがむずかしいとわかると、ひどい抑うつ状態におちいりました。ここまではドメスティックバイオレンスの加害者によく見られる心理と行動です。しかし、宅間はアクセスできないAを殺す代わりに、大量殺人の方法を夢想することで抑うつから抜け出します。大量殺人によって殺人者は被害者を支配するにとどまらず、その死を悲しみ嘆く家族や友人など多数の人々の支配者になることができるのです。」
(「体罰と戦争」森田ゆり著 かもがわ出版2019年より)

 

日本の青少年の自己肯定感の低さが際立つ

植松もまた大量に殺すことが一兵卒の手柄であるかのように、その数にこだわった。津久井やまゆり園の他に厚木市内の障害者施設を襲うことを告知した衆議院議長のへの手紙の中で目標人数も記している。「私は障害者総勢470人を抹殺することができます」「職員の少ない夜勤に決行する。職員には致命傷を負わせず結束バンドで拘束して身動きや外部との連絡を取れなくする。2つの園260名を抹殺したあとは自首する」(東京新聞2016年7月27日朝刊)

生産性のない重度障がい者は国の負担だから大量に殺す。その任務を果たす自分は役にたつ生産性の高い活躍人間だから国のトップから褒めてもらえると本気で思っていた彼の承認欲求が、腹立たしさを超えて哀しい。

国立青少年教育振興機構の実施している高校生の自己肯定感の国際比較調査で、日本、米国、中国、韓国4カ国の中で、日本の高校生は自己肯定感が極めて低いことがわかっている。2017年の調査では2014年とほぼ同様の結果が出て、「自分を大切に思えない」数値が日本は圧倒的に高い。「自分は価値ある人間だと思う」は他3国が80%以上なのに対して44%。「得意なことが少ない」58.3%。「自分はダメな人間だ」と思う生徒は他国が30%前後なのに日本だけ72.5%(2014年)。 2011年の日本青少年研究所の高校生4カ国(日・中・韓・米)比較調査も似たような結果を出している。

自分はあるがままで十分に存在価値があると思えない自己肯定感の低さは、植松や宅間が苦しんだ劣等意識と重なり、人権感覚の欠如に繋がる。

 

マイケル・ジャクソンが訴えたこと

前掲書「体罰と戦争」の最終章では、暴力の連鎖を続けてきた人類は同時に暴力の対極にある慈しみとエンパワメントの遺産も引き継いできたことを指摘した。その遺産の一つである「子どもの癒しは世界の癒し」思想を歌い実践し続けたマイケル・ジャクソンが残したエンタテーメントアートのエッセンスを私たちが引き継いでいくことの希望を論じた。

マイケルは生産性中心の競争社会から振り落とされ落ちこぼれてギャンクと化したゲットーの若者たちに向かって歌い続けた。

「1987年に世界中で大ヒットした「Man in the Mirror」(鏡の中の男)は、隠喩も象徴も使わずただストレートに、より良い世界のために変革を起こそうと歌い続けます。(中略)  ソフトな声で始まる「世界をより良いところにしたいのなら、自分を見つめて、自分から変えよう」というマイケルのストレートな呼びかけが何度も繰り返される。「鏡の中に映る男、自分から変化を起こしていく」のリフレインが次第にクレッシェンドになっていき、まるで第九交響楽の「歓喜の歌」の最後の大合唱の繰り返しのように、聴く人の心に押し寄せ迫ってきます。マイケルの魔術師のような高度な音楽性の極みに心も体も圧倒されてしまうのは私だけではないはずです。

「人生に一回だけでいい、変化を起こそう。
歩き方を変えるだけでもいい
そこの君、ただ流されるままに生きるのをやめて。
自分を信じて
stand up、立ち上がれ、stand up、立ち上がれ、
change 変わろう make change 変えよう」
(Man In the Mirrorの部分 訳 森田ゆり)
このstand up は1975年にボブ・マリーが、母国ジャマイカの抑圧されてきた同胞たちに向けて歌い、世界の若者たちを立ち上がらせたあの有名な「get up stand up for your rights」を彷彿とさせて、聴くたびに全身が総毛立ちます。「400年の隷属から自分の権利のために、立ち上がろう」とボブ・マリーはリズミカルに歌い、人々は踊りながら立ち上がりました。

一方、マイケルは「stand up」と「change!」の大合唱の興奮の後に、一拍を置いて、聴く者の心に忍び寄るような声で、『変化をおこそう』とささやきかけるのです。

『世界を変えたいのなら、あなた自身が変化changeとなりなさい』と言ったガンジーの言葉が思い起こされます。」(「体罰と戦争:人類の二つの不名誉な伝統」森田ゆり著
かもがわ出版 2019年より)

(月刊「部落解放」2019年9月号 多様性の今 23 より転載)

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