マイケル・ジャクソンと子どもの癒し・世界の癒し

『部落解放』連載「多様性の今9」2018年4月号掲載 編集部の好意で転載許可

森田ゆり(作家)

誤解され続けたポップ・スター

ぼくの子ども時代を知っている?

ぼくには子ども時代がなかった。

人々は、ぼくは変だという。

人々は、ぼくは普通じゃないという。

ぼくは、ただ子どものような単純なことが大好きなだけだ。

つらい子ども時代だったんだ。

ぼくを判断する前に、君の心の中をのぞいて。そしてぼくをわかってほしい。

          (Childhood 1995年)

 

 彼の死から5年後の2014年になって初めて私はマイケル・ジャクソンに出会った。同時代に生きていたのに、マイケルの本質について何も知らなかった長い年月があったことを歯ぎしりするほどに悔しく思う。

 なぜあそこまでマイケル・ジャクソンは誤解され続けたのだろう。

 なぜあそこまでマス・メディアはマイケルを揶揄し中傷する記事を流し続けたのだろう。ミリオンセールを記録するいくつものアルバムの中で、マイケルが「戦争と不正によって子どもたちが傷つけられていることへの怒りと、子どもを癒すためにできることをする信念」を終生に渡って世界に発信し続けたのに、なぜ私のようなポップミュージックに特別の関心を持たなかった人間には、その声が届かなかったのだろうと改めて思うのだ。

 80〜90年代の私のカリフォルニア在住中、小学生だった自分の子どもたちがマイケルの歌を歌い踊りに夢中なのを横目で見ながら、その歌詞が何を語っているかに気を払ったことはなかった。

 10歳の息子が歌っているMan in the Mirror(1987)のその歌詞が、反戦と非暴力を歌っているとは思いもしなかった。Black and White(1991)がIt’s not about races. Just places. Faces.人種じゃない、場所だ、顔だ。もういい加減にしてくれと人種差別を訴えているとは思いもよらなかった。

 1991年のアルバム「Dangerous」に収められたいくつもの曲が、マイケルの渾身のアメリカの戦争への抵抗であり、子どもの癒しこそが世界を癒すとの揺るがない彼の思想を歌いあげていることを、当時の私は知らなかった。彼と同じ考えから、仕事や活動で同じメッセージを私なりのやり方で発信し続けていたというのに。

 私はポップミュージックには疎かったが、90年代はカリフォルニアで子どもの和太鼓グループを立ち上げて、週末毎に地域の音楽フェスティバルで子ども達と演奏していたから、ポップ音楽には近い所にいた。それなのに、マイケル・ジャクソンの時に激しく、時に悲しく、時に辛辣な変革への叫びは私には届かなかった。

 

冤罪事件の影響

 ジョン・レノンが、ボブ・マリーが、スティービー・ワンダーが、社会の不正を見据え、変革のための行動を呼びかける曲を歌って広く支持されていたのに、彼らよりもはるかに明確な変革へのメッセージを80年代からずっと、数多くの曲の中で発信し続けてきたマイケル・ジャクソンへの一般の理解はそうではなかった。子ども向けの踊りと音楽、軽いポップミュージック、派手で軽薄なショービジネス、そんなマイケル像を多くの私たちは、マス・メディアから植え付けられていた。

 そして1993年に少年への性虐待嫌疑が持ち上がった。事件は、マイケルがネバーランドに迎い入れたたくさんの子どもたちの一人、その父親が巨額の賠償金目当てに子どもに嘘の証言をさせた冤罪事件だった。

 80年代を子どもの虐待分野で仕事をしていた私には、それが賠償金を狙った恐喝事件であることはかなり早い時期から推測できた。マイケルは無実を主張したが、裁判が7年かかることが予想され、音楽活動に多大な影響を及ぼすという弁護士の助言に従って、200万ドルの和解金を払うことで決着をつけた。それを虐待を隠蔽するための買収行為と報道したメディアは少なくなかった。 少年はその数年後、歯科医だった父親から麻酔薬を使われて嘘の証言をするよう誘導されことを公言した。その父親はマイケルの死後数ヶ月後に自殺している。2003年のもう一つの嫌疑は裁判で無実が証明された。

 

キッズ・ヨーガと「Billie Jean」の出会い

 2014年、日本で子どものヨーガクラスを始めた私は、ALOHA KIDS YOGAと名付けたヨーガクラスの中で、一連のポーズを続けて行う太陽礼拝と月礼拝をHIP HOP音楽をバックにしてすることを構想した。その曲探しになんと3ヶ月もかけた。一連のヨーガをしながら、この曲は? あの曲は?と試みていたのだ。なかなか納得する曲に出会えなかった。ジャネット・ジャクソンの曲に合わせてヨーガをやってみて、うーん、今ひとつだなと思ったそのすぐ次に、意図せずしてマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」がかかった。曲に合わせて動きを始めると、すぐにこれだ、この音楽を待っていたんだと動く体が確信していた。1983年リリースの、ジャクソン5から独立したマイケルの自立の象徴のような曲、そしてその後の世界のヒップホップ音楽と踊りに最大の影響を与えることになる歴史的な曲。ビリー・ジーンに決まった。

 以来ALOHA KIDS YOGA™では、毎回、月礼拝をマイケルのBillie Jeanで、太陽礼拝を安室奈美恵のQueen of Hip HopのBGMでやっている。ちなみにQueen of Hip Hopは2005年に日本で最初にヒットしたHip Hop曲、日本におけるポップミュージックの歴史を刻んだ曲である。(アロハキッズヨーガについては、本誌2017年10月号・多様性の今3「脳神経多様性と自閉症スペクトラム」及び、本誌2018年2月号・多様性の今7「アロハはいのちの多様性を讃える言葉」を参照 

http://empowerment-center.net/aloha-kids-yoga/

 

 インタビューによると、当時のマイケルのプロデューサー、クインシー・ジョーンズは、ビリー・ジーンの29秒のイントロが長すぎると思っていた。「マイケル、あれは長すぎるよ。もっと早くメロディーに入らなきゃ」と提案。しかしマイケルは「でもアレがポイントなんだよ!アレがあるからこそ踊りたくなるんだよ!」とイントロカットを拒む。(中略)こうして私達が今も、一瞬も目が離せないあの素晴らしいイントロが、温存されたのである。ビートが背骨に響くと同時に、マイケルがマイケルワールドに入っていくあの29秒は、観衆がマイケルワールドに融合するための魔法の29秒とも言えるだろう。」(Michael Jackson   the Life of Creative Soul   http://foreverland2.web.fc2.com/sizzle.htmlより)

という記事を最近読んで、俄然ワクワクしてきた。子どものヨーガクラスでは、実にこの29秒が鍵なのだ。イントロの時間を、背筋をすっと伸ばして、深い腹式呼吸をして瞑想する。この全身全霊で集中瞑想する29秒があるから、残りの5分間の子ども達のヨーガの動きがリズムにのる。イントロにこだわってくれたマイケル、ありがとう。

 ここから私がマイケル・ジャクソンの深い世界を知る旅が始まった。1日2クラス、週に5日ヨガークラスを教えている私は、週に10回は、ビリー・ジーンの曲とともに月礼拝をやっている。マイケルの公式ミュージックビデオをネットで見ることに一気に引き込まれていき、以来彼の音楽を聞かない日は無い。 

 従来のミュージックビデオは音楽の背景としての映像だったが、マイケルはそれをストリー性のあるショート・フイルムとして確立してこの分野にも革命を起こした。映画制作に強い興味を持っていたマイケルが多額の予算をつぎ込んで作ったショート・フイルムは、見ているだけでも面白く、たくさんの学びがある。

 

平和と変革を謳うマイケル・ジャクソンのメッセージ

 マイケルは子どもの幸福と地球の健康を願ってやまなかった。そのピュアな理想主義と人道主義とは、単なる金持ちセレブの慈善行為とは全く次元の異なるものだった。私には宮沢賢治を想起させるのだ。子どもと地球が傷つく現実に身を切られるように反応する彼の感性こそが、独創的なチャリティ、音楽表現、組織活動、講演活動を終生現実化し続けた原動力だった。

 

 1991年湾岸戦争の年にリリースされたWill you be there? は聴くたびに、人を信じ人と繋がり、戦争を憎み寛容を願うマイケルの心がひしひしと伝わってく。「ヨルダン川のように私を抱きかかえて」とアラブの人々に手を差し出して許しをこう。「忠実に行動せよと彼らは言う。倒れても進み、最後まで戦えと。でも、ぼくはただの人間なのだ。」と軍隊を嫌い和解を願う。共に約束の地に行こう、君はぼくと一緒にいてくれるか?」と渾身の思いで歌う。

 

 1987年に世界中で大ヒットした「Man in the Mirror」(鏡の中の男)は隠喩も象徴も使わずただストレートに、より良い世界のために変革を起こそうと歌い続ける。公式ショート・フィルムでは、マルティン・ルーサー・キング牧師、デズモンド・ツツ神父、ジョンとヨーコのPeace メッセージ、ガンジー、マザーテレサ、JFケネディ、銃弾に倒れたロバートケネディなどの映像が、ホームレスの子供たち、アフリカの飢える子供、戦場の兵士たち、クークラックスクラン、核爆発のキノコ雲などのイメージの間に映し出される。そして最初から最後まで、たくさんの子供たちの映像。その中には彼の日本ツアー最中の日本の子どもたちの映像もある。

 

人生に一回だけでいい、変化を起こそう。

食べるもののない子供から目をそらさずに、家のない子を見て見ぬ振りせずに

ぼくは鏡の中に映る男から変化を起こしていく

歩き方を変えるだけでもいい

世界をより良い所にしたいのなら、自分を見て、

自分から変えよう

そこの君、ただ流されて生きるのじゃなくて。  

stand up、立ち上がれ

 

 このstand up は1975年にボブ・マリーが世界の若者たちを立ち上がらせたあの有名な「get up stand up for your rights」を彷彿とさせて、全身が総毛立つ。「400年の隷属から自分の権利のために、立ち上がろう」とボブ・マリーは歌った。マイケルは歌の最後に、聴く者の心に忍び寄るような声で、『変化をおこそう』とささやきかけた。

「世界を変えたいのなら、あなた自身が変化changeとなりなさい」と言ったガンジーの言葉が思い出される。

 

 Heal the World(1991年)の 公式ショート・フイルムの映像は、パレスチナかアラブの戦場の子どもたち。薄暗い病室のベッドの上の負傷した子どもたち。外では戦車の周りで少年たちがサッカーボールを蹴っている。一人の5歳ぐらいの少女が一輪の花を持って、マシンガンを持って戦車の周りに立つ兵隊たちに向かって走る。他からも子どもたちが現れる。少女が花を兵士に渡す。兵士はその花の匂いを嗅ぎ、マシンガンを捨てる。たくさんの兵士たちが銃を捨て始める。もっと子どもたちが集まってくる。もしかしたら兵士は銃で子どもたちを撃つかもしれないと思わせる緊張感のあるフィルムをバックにマイケルは歌う。

「君の心のなかの小さい場所 それは愛

人が死んでいく もし命が大切なら

君と僕のためにより良い場所を作ろ

恐怖のない世界を作ろう

共に幸せの涙を流そう

そうすれば国々は刀を捨て鍬を手にするだろう

それを実現することは可能だ

 

より良い世界をつくるために

世界を癒そう

より良い場所にしよう

(Michael Jackson 『Dancing The Dream』1992年より部分引用)

 

ノーベル平和賞ノミネーション

 1992にHeal the World(世界を癒す) 基金を作り、1992年から93年の1年半にわたる69公演350万人の観客を動員したDangerous World Tourの収益は全てこの基金に回された。壮大なスケールのチャリティである。マイケルがこのツアーを始めるにあたって出したメッセージの一部を紹介しよう。

 

「子どもたちは、全てのものの中で最も美しく大切な宝物です。
しかし1分間に28人もの子供が死んでいっているのです。
子どもたちは病気・戦争・銃・虐待・放置によって殺される危険に晒されています。
子供たちには語る権利は殆んどなく、それらを訴えかける大人もいません。
子供たちは世間での発言権がないのです。

神と自然は、僕に声を与えてくれました。
今こそ、その声を子供のために使いたいと思います。
基金を設立し、声なき子供… 彼らの声にしたいと思います。

皆さんも、私たちと力を合わせてこの世界を癒して下さい。
親・地域社会・政府・そして世界中の人々に訴えます。
まずは子供たちを最優先して下さい。

最後に、最も大切なことです。
世界中の子供たちに、こう話してあげたいのです。
君たちすべては我々の子であり、君たち1人1人が僕の愛すべき子なのだと。」

 

 この基金によって、世界の多くの難病患者が救済されてきた。

 マイケルは世界の子どもを支援する様々な団体に毎年莫大な金額の寄付をしたことで、1999年、ギネス・ブックに「最も多くのチャリティー組織に寄付をした」として掲載された。その寄付金の総額は3億ドル(約240億円)になる。お金を出すだけでなく、ツアーで訪れる町々で彼がまずすることは子どもの病院や施設を訪問することだった。

 自宅のネバーランドには、難病の子ども、貧困層の子どもたちを頻繁に招待して、その対応のために100人近い従業員を雇っていた。

 「ノーベル平和賞」にも1998年と2003年の2度ノミネートされた。

 マイケルの著書『Dancing The Dream』に収められた詩と随想では、繰り返し子どもへの彼の強い思いが語られている。

「私たちの内なる傷ついた子どもを癒さなければなりません。今日の混沌、絶望、無意味な破壊は人々が互いに疎外され、自然環境からも疎外されているからに違いありません。この疎外はしばしば子ども時代の傷つけられた心に根を持っています。

 子どもたちから子ども時代が盗まれてしまったのです。子どもの心は、ミステリー、魔法、驚き、そして興奮の栄養を必要とします。私は人々が自分の内に隠れている子どもを再発見する手伝いを自分の仕事としたいです。」(筆者訳)

 

 Heal the World(世界を癒す)の10年後もマイケルはCryで同じメッセージを歌う。

風に吹かれて震えている人がいる

友達のいない人がいる

助けてくれるヒーローのいない人がいる。

真実の物語を語れない人がいる。

 

この曲の公式ショート・フイルムの映像は、カリフォルニアの海岸から始まる人間の鎖、人種も、性別も年齢も多様な人々がただ延々と、どこまで続くのか。手を繋いで立っている。

 

もし僕らが今夜一斉に叫んだら、

世界に示そう

君たちは世界を変えられる(ぼく一人では無理なんだ)

君たちは空に触れることができる(誰か手伝いが必要だ)

君たちは選ばれた(その印を見せてくれ)

その旗が風になびく時

戦争は無くなるだろう

もし僕らが今夜一斉に叫んだら

世界を変えられる

(Cry  2001年より)

 

80年代から一貫してマイケルが訴え続けてきた「子どもの癒しは世界の癒し」の信念を、最もストレートにはっきりと伝えているのが、The Lost Children 2001年である。

 冒頭から、この曲は迷える子どもたちのためだと明かしている。

 そして曲の最後でマイケルは、「大人たちに伝えたい」とえりをただして語りかける。

「僕ら大人には大事なことがたくさんある

自分のことが大事と思うことがあるかもしれない

でも、僕ら大人は大事じゃない

子どもたち

子どもたち以上に大事なものはない

子どもたちは未来だ 

世界を癒すことができるのは子どもたちだ

子どもと一緒にいてあげてほしい

助言し、元気付け、助けることが大人の義務だ

そして愛する

子どもが夢を持てるように勇気付けよう

親として、友達として、親戚として

子どもに良き夢を持たせてあげよう」

 

 この曲を発表した頃、彼はすでに二人の子どもの父親になっていた。1997年に第一子が生まれ出産にも立ち会い、その後2人の子どもを授かり、シングルファーザーとして子育てに多大の時間を割いた。子どもたちの朝食を作り、夜は本を読んで聞かせて、子ども達と過ごす時間をこよなく楽しんだ。

 子どもたちの母親は、パパラッチに追い回されるセレブの暮らしに耐えきれず離婚したと語っている。

 1996年に日本を含む世界35か国58都市を回ったヒストリーツアー以降10年間、マイケルは世界ツアーをしていない。その時期は子育ての真っ最中で、子どもとの時間を優先していたからだ。子供たちが10代になった2009年にロンドンから始まる「this is it」ツアーを企画し、その直前に亡くなった。

 

子どもの人権論・子育て論

 2003年にはHeal the Kids 基金を設立し、そのメッセージを広めるために、専門家や著名人を招いて世界各地で、数々の講演活動を企画した。ニューヨークのカーネギーホールにはじまり、ネバーランドでの会議で幕を閉じた一連の活動のエッセンスは、2003年のオックスフォード大学での講演に凝縮されている。2003年といえば、長男6歳、長女5歳、次男1歳で、子育て真っ最中のときである。

 

 長時間のこのスピーチは、「子どもと愛」をテーマにした極めて完成度の高い講演で、時間をかけて丁寧に準備したに違いない。マイケルが音楽の演奏やレコーディングにおいて完璧主義者だったことはよく知られていることだが、講演原稿作成とその実施も完璧だった。

 オックスフォード大学の伝統と権威に敬意を示すと同時に、アインシュタインやマザー・テレサに加えてセサミストリートのカエルのカーミットもここでスピーチをしたことを引き合いに出して、好センスのジョークを交えるところなど憎いくらいに上手だ。スピーチの中程で、自分の父親への思いを語り、声を詰まらせ泣いた。厳しい体罰の繰り返しで、褒めてくれることもなく、愛を言葉で示してくれたことのなかったその父を許そうと努力してきた自分をさらけ出す。聴く者の涙を誘いながらも、あちこちにウイットとユーモアを散りばめて、子どもたちは愛される権利があるというマイケルの主張は明快に聴衆に手渡されて行く。その一部を紹介しよう。

 

「(前略)すべての家庭に子どもの国際権利章典が取り入れられるように提案します。その条項は、
1、そのままで愛される権利。自ら求めずとも。
2、どんな場合でも守られる権利。
3、かけがえのない存在だと感じられる権利。何も持たずにこの世に生を受けようとも。
4、話を聞いてもらえる権利。たとえおもしろくない話でも。
5、寝る前に読み聞かせをしてもらう権利。夕方のニュースを優先されてしまうことなく。
6、教育を受ける権利。学校で銃弾におびえることなく
7、かわいがられる対象となる権利 (たとえ母親だけが愛しいと思う顔だとしても)

 

どの人も、自分が愛される対象であると実感することが、認識の土台、つまり意識のはじまりなのです。髪の色が赤か茶色かを知る以前に、肌の色が黒か白かを知る以前に、どんな宗教に属しているかを知る以前に、自分が愛されていることを実感できなくてはならないのです。(中略)

 みなさん。私たち人間のすべての認識の基礎、意識の始まりは、私たちの誰もが愛される対象だと実感することです。(中略)

 しかし、愛された記憶がなければ、心を満たすものを求め、世界中を探し回るようになります。どんなにお金を稼ごうとも、どんなに有名になろうとも、虚しさを感じ続けることでしょう。本当に探し求めているのは、無償の愛、つまり無条件に受け入れられることです。生まれた時に、享受できなかったものなのです。(中略)
 言うまでもなく、この痛み、怒り、暴力行為の根は探すまでもありません。子どもたちは明らかに、放置されることに激しく怒り、無関心に体を震わせ、認めてほしいと叫び声をあげているのです。アメリカの様々な児童保護機関によると、毎年平均何百万人もの子どもたちが、ネグレクトと言う虐待の犠牲になっているそうです。(中略)

 なぜわたしが自分の時間や財産の多くを注ぎ込んで「ヒール・ザ・キッズ」の活動を大きな成功にしようとしているのかおわかりでしょう。わたしは統計の示す冷たい数字に魂をもぎ取られ、心を揺さぶられているのです。私たちの活動の目標はシンプルです。――親子の絆を取り戻し、約束を新たにし、地球の将来を担うすべての子どもたちの歩む道を明るく照らすことです。(中略)

 わたしが本当に欲しかったのは、お父さんです。私に愛を示してくれる父親がほしかったのです。父はただの一度もそれをしてくれませんでした。目をまっすぐ見つめ大好きだと言ってくれたことも、いっしょにゲームをしてくれたこともありませんでした。肩車をしてくれたことも、まくら投げをしたことも、水風船をぶつけあったこともありません。     でも、4歳のころ、小さなカーニバルで、父が私を抱き上げ、ポニーに乗せてくれたことを覚えています。それはちょっとしたしぐさで、おそらく5分後には父は忘れてしまったことでしょう。しかし、その時、わたしの心の特別な場所に、父への思いが焼き付けられました。子どもとはそんなもので、ちょっとした出来事がとても大きな意味をもつのです。わたしにとっても、あの一瞬がすべてとなりました。たった一回の経験でしたが、父に対して、そしてこの世の中に対して素晴らしい思いを抱くことができたのです。(中略)

 インド建国の父マハトマ・ガンジーが言いました。 「弱者は人を許すことができない。許すことは強さの裏返しである」 今夜、強くなりましょう。強くなるだけでなく、とても困難なことですが、壊れた関係を修復するために立ち上がりましょう。子ども時代に受けた傷が人生にどんな影響を与えようとも、乗り越えなければなりません。(中略)
子どもたちの笑い声を新しい歌に

子どもたちの遊ぶ音を新しい歌に。

子どもたちの歌声を新しい歌に。

大人たちが耳を傾けている音を新しい歌に。

子どもたちの持つ力に驚き、美しい愛の温もりを感じてともに、心のシンフォニーを創りましょう。世界を癒し、痛みを和らげましょう。そして、美しい音楽をみなさんとともに奏でられますように。 ( Michael Jackson King of Pop by Christian Marksより 訳は筆者)

 


 

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