エンパワメントとレジリアンス

森田ゆり
月刊「部落解放」2018年11月号 多様性の今16掲載

「レジリアンス」という用語の使用は日本では2010年代に入って急激に増えてきました。欧米では1970年代後半から子どもの発達、社会教育の分野で使用され始め、90年代後半には心理、精神医療などの人文分野でも頻出するようになり、今日ではビジネス、経営学、防災、都市計画、生態学などほぼあらゆる分野で使われるようになりました。
エンパワメントとレジリアンス、どちらも人権を「生きる力」と解釈する
実践的人権論に基づく対人援助論の支柱をなす概念なので、言葉の由来を含めて、ここでその意味をあらためて再考しましょう。

 

レジリアンスとは

1999年に出版した拙著「子どもと暴力」(岩波書店)の中で「弾力性」という章立てをして次のように書いたのが日本で最初のレジリアンスの紹介だったと思います。
「人間関係に葛藤や対立はつきものだから、子どもも大人もさまざまなストレッサー(ストレスを起す要因)に出会っていくのが現実だ。こうした外からやってくる抑圧やストレスはときには人の内に深く侵入し、内的抑圧となって自尊感情を低め、健康に生きるさまざまなちからに傷をつけてしまうこともある。しかし、いつもそうなるわけではない。なぜなら人はたいていの外的抑圧ははね返してしまう力を持っているからだ。抑圧がいったん内に侵入し、心の内に傷を付けられたとしても、その傷を自分で癒してしまう自然治癒力も人は持っている。

このような力のことを英語では レジリアンシー(弾力性)と呼ぶ。ここで敢えて英語を出したのは、80年代の末頃から米国の虐待問題に関る専門職の間では、レジリアンシーがキーワードとしてしきりに言われ出したからだ。私自身も80年代の末に企画した虐待防止に関するカリフォルニア州レベルの研修会で「子どものレジリアンシー」というテーマをつけたことを記憶している。
(中略) ゴムボールを人のこころと見た時、外からのプレッシャーによってボールは変形する。ストレッサーがなくなれば、ボールはまた元の形に戻る。これが弾力性だ。人はみなこの心の弾力性を持っている。しかしこの弾力性が失われていたら、ボールはストレッサーを受けると変形したままになってしまう。些細な外的な刺激にも過剰に反応してしまう。すなわちストレスによって健康な心の状態が維持できなくなってしまうことだ。」

レジリアンスを最初に学術的概念として研究課題に挙げたのは、子どもの発達の長期的研究ではよく知られているワーナー等による「カワイ島縦断研究」(Werner EE, Smith RS : Vulnerable but invicible ; a longitudinal study of resilient children and youth「脆弱しかし不屈:レジリアントな子どもと若者の長期研究」McGraw-Hill, New York, 1982 )だと言われています。
この画期的な研究は、1955年にハワイのカワイ島のサトウキビとパイナップル農場労働者(大半が日系人、フィリピン人及び先住ハワイアンで高校を卒業していない)の家族に生まれた全ての新生児の発達をその後、1歳、2歳、10歳、18歳、そして成人した38歳まで追跡したものです。出産前の多重ストレス、貧困、家庭内不和、不十分な保育と教育環境などの過酷な生育条件が発達成長に及ぼす影響とそのリスク要因の分析を目的に始まった研究でした。しかし過酷な環境を乗り越えて健康に成長するケースが予想以上に多かったことから、研究は、途中でリスク要因よりも健康な発達を可能にする保護要因の特定にフォーカスがシフトします。すなわち困難状況の中でも健康に強く生きていく力、レジリアンシーの要因を分析していったのです。

 

レジリアンスのルーツは家族や地域

貧困、不和などの問題を抱える家族、中位から深刻レベルの出産前ストレスなどのハイリスク親の元に生まれた201人の子どもの3人に一人は、その後10歳までに深刻な学習問題、行動問題を示し、18歳までには非行に走り、メンタルヘルス問題を発生、10代で妊娠などを経験していました。ところが同じ3分の一(72人)は、深刻な学習上、行動上の問題もなく、よく愛し、よく働き、よく遊び、よく期待される子ども時代を過ごし、有能な社会人に成長したのです。過酷な成長環境にありながらこれらの子どものレジリアンシーのルーツは何だったのかを特定分析することに研究のフォーカスはシフトしました。
研究結果を短く要約するならば、幼年期には少なくとも一人の愛着形成対象としての世話をしてくれる大人がいた、青少年期にはロールモデルとしての大人がいた、家庭における生活のルールや規範が機能していた、家族、親族、近所、学校、教会などで大人や子どもとの信頼、愛情関係を持っていたなどの家族、地域コミュニティの存在がレジリアンシーのルーツとして特定されたのでした。

レジリアンスはもともと「復元力」「弾力性」「弾性エネルギー」という意味の物理用語を人間の成長や健康に転用した言葉で、「困難な状況にも適応して健康を維持するしなやかな力」という意味です。それは強靭な屈強さではなく、しなやかな耐性力です。ですから反対語は「vulnerabilityもろさ、脆弱性」が使われます。そして「カワイ島研究」が明らかにしたように、健康な人間関係を保つコミュニティの支えがわずかでもある限りは、困難、抑圧が大きくても、その分はじきかえす力も強いという意味を付与された用語でした。
私は学生時代の日本の最貧困地区での子どもとのキャンプ活動、メキシコ、ガテマラ、ロスアンゼルス、サンフランシスコのゲットー、先住アメリカンの居留地など、世界の貧困地域での子どもたちとのフィールドワークの経験から、困難環境に生きる子どもたちの生活力と健康度に目を見開き、希望をもらってきたので、このレジリアンシー概念との出会いはエンパワメント概念と同様に自分の経験に言葉を与えられたようで感動的でした。
レジリアンシーとは「受けてきた抑圧が大きいほど跳ね返す力は強い」というテーゼとして私の中に定着しました。

 

ストレンス基盤(ベース)

エンパワメントやレジリアンスの概念が60〜70年代の米国の社会変革の運動の中で育っていった背景には、問題解決の方法論の大きなシフト転換がありました。70年代までは個人や家族や社会の問題を解決するには、その問題点やリスク要因を分析し、それらを減らすというアプローチが大半でした。このアプローチはパターナリスティック(有識者や政府の知性が一般大衆の抱える問題を解決するという信仰)な社会の反映でもあります。それに対して、問題の中に潜在する肯定面、良い面に注目し、その一層の活性化をはかるという方法論が70年代の社会変革運動の中で生まれ、それは今日ではストレンス基盤(ベース)と呼ばれています。
先に紹介した「カワイ島長期研究」は40年近くに及んだ長期縦断研究であったが故に、まさにその間に起きた社会意識の変化がそのまま、研究のフォーカスのシフトをもたらした、すなわちリスク要因の分析からストレンス要因の分析へとシフトした興味深い例です。

ストレンス(strength)という英語は、「レジリアンス」が人文分野で使われるようになった80年代に前後して、米国の子どもの虐待分野の研究者や実践家の間では「strength based program」(人の強さに着目するプログラム)と言った文脈で使われ始めました。
児童福祉の分野で「strength based」を70〜80年代に最初に主張したのは、マイノリティーの人々でした。エンパワメントの用語が人種マイノリティ、女性、障がい者たちの人権運動の中で生まれ普及していったのとそれは歴史を共有しています。
ニュージーランドの先住マウイ族の教育者であり言語学者のDrTe Kapunaga Dewes,(1930~2010)はコロデューズ ”Koro” Dewes の愛称で呼ばれて尊敬を集め、その一生をマウイの言語と尊厳と権利の回復のために捧げた長老でした。
彼の次の言葉は、ニュージーランドの児童福祉におけるソーシャルワークの基盤を、白人中心の西洋個人主義ベースから、strength baseへと大きく舵を切る原動力となった主張を見事に代弁しています。

「我々マオリは落第者だと言われ続けてきたことにとことん嫌気がさしている。我々の否定的な面、欠点、弱点ばかりに焦点を当てられることに苛立ちを隠しえない」

「わたしの欠点よりもわたしの長所に注目してほしい」

マオリには拡大家族(ワナウンガタンガ ハワイ先住民はオハナ)の中で食事を交えながら長い時間をかけて問題を解決してきた伝統があります。従来の子どもの福祉政策においては、先住民の伝統が尊重されたことはなく、行政機関や有識者らが、彼らが正しいと思うやり方で、家族を指導、教化するのが当たり前でした。80年代なって、人権と文化の多様性に配慮した対応の必要性が主張されるようになって、ようやく上からの指導中心の福祉政策が見直されるようになったのです。

文化的多様性のみならず、個々の家族の多様性を尊重し、それぞれがもつストレンスstrengthにアクセスしながら援助を提供していくエンパワメントの方法は、strength based と呼ばれて福祉、教育の援助方法として普及するようになりました。
(「虐待・親にもケアを」森田ゆり著編 築地書館2018年から要約引用)

(ちなみに、日本では学術書においてもstrengthをストレングスと標記することがすでに定着しているように見受けられますが、strengthはストレングスとは発音しないので、その標記を目にするたびに強い違和感を覚えます。longの名詞のlengthをレングスとは発音しないのと同じです。
strongの「ng」はストロングとgを発音しますが、ngthと子音が続くと「g」はサイレントになります。日本語にない発音なので音声をカタカナ表記にすることに無理があるのは確かです。
「ストレン(ク)ス」と喉の奥にク音をかすかに飲み込むように発音しますが、それを「グ」と発音する英語のネイティブスピーカーに出会ったことはありません。「ストレンス」の方がはるかに本来の音声に近いカタカナ標記です。外国人に寿司をズシと発音されたら、私たちは一瞬理解に戸惑うように、gを発音してしまうと通じないこともあると思います。
本書ではストレンスの言葉を多く用いたので、「ストレングス」に慣れている読者に意味が伝わらないと困るので、ストレンス(strength)と英語を付けて表記しました。)

 

エンパワメントとは

エンパワメントは、個人や集団が力をつけて自立するといった意味合いで理解されていることが多いですが、本来はそのような意味ではありませんでした。エンパワメントとは人が生まれながらにして持つ生きる力を発揮することで、そのためには抑圧のない、公平に分かち合う社会が不可欠であると言う人権の考え方を基本にしています。筆者は70年代以降のアメリカを中心としたフェミニズム、先住民、障がい者運動の中に身を置いていた者として、その運動の中からこの概念が生まれ、広がった歴史を体験してきました。
1997年に20年ぶりに海外から日本に仕事を移した私は、エンパワメントの言葉が、日本では「力をつけること」「社会に進出すること」などと本来の意味とはかけ離れた掛け声として使われていることに驚き、また怒りすら覚えました。各地での講演でその間違いを指摘していた仕事が、「エンパワメントと人権」(解放出版社1998年)の本に結実し、日本で最初にエンパワメントを理論化した本となりました。

図1「否定的パワーと肯定的パワー」の図 「エンパワメントと人権」より転載

「em-powermentというこの英語、emは「内」という意味を持つ接頭語、powerは「ちから」、mentはempowerという動詞を名詞にする接尾語。すなわち「内」と「力」がこの言葉を理解する鍵である。パワー(力)は、図にあるように2種類に分けることができる。否定的なパワーと肯定的なパワー。否定的なパワーの例としては、暴力、抑圧、権力、支配、戦争、いじめ、虐待などを上げることができる。肯定的なパワーとはたとえば、知識、経験、技術、自己決定、選択の自由、援助、共感、信頼、愛などで、中でも重要なのは権利意識である。
権利意識とは簡単に言ってしまえば自分を大切にする心のことだ。セルフエスティームと呼んでもいい。否定的パワーに対抗する力とは、権利意識を核にするこの肯定的パワーの諸要素である。エンパワメントとはこの諸要素を活性化することにほかならない。」(「エンパワメントと人権」19頁の図を入れる。)

「エンパワメントを「力をつけること」と理解してしまったら、それはあの「自立」のエリート意識と少しも変わらなくなってしまう。私は自立している、あなたも自立しなさい、というがんばれ、がんばれのメッセージ。相変わらず個人の競争意識を煽るだけで、ある者には優越感を、ある者には劣等感を抱かせるだけの掛け声にすぎず、変革思想などとはほど遠いのだ」 そして21世紀になってそれは、「自己責任」という抑圧の論理の中に絡め捕られてしまった。

「「もっと自立しなけりゃだめ」とか「今のあなたはまだ十分でないからがんばりなさい」と言って元気づけるのではなく、あるがままをまず受容し、内在する資源に働きかけることがエンパワメントである。何者かにならなければと懸命に励んで知識や技術という服を幾重にも着込んで行くのではなく、逆に着膨れしている服を一枚一枚脱いでいき、自分の生命力の源に触れることだ。裸足で地面をしっかり踏みしめ、大地の生命力を吸い上げることなのだ。」(「エンパワメントと人権」(森田ゆり著 解放出版社1998年)より)
レジリアンスは、この人権をベースにしたエンパワメント概念の中に位置付けた時、教育、福祉、医療の対人支援に実効性を持つ具体的方法となります。次の図は、人権—エンパワメント–レジリアンスの相互の関係を理解するために作った図です。以下、筆者の研修で過去35年間、変わることなく語り続けている説明を紹介します。

 

生きる力のみなもと

エンパワメントとは、人は皆生まれながらに様々の素晴らしい力(パワー)を持っているという人間観から出発する考え方です。そのパワーのなかには、ふりかかってきた問題を解決する力、自分を癒す力、個性という「自分が自分であることの力」もあります。
生まれたばかりの赤ちゃんにはどんなパワーが内在しているでしょうか。下の図を見ながら考えてみましょう。どのあかちゃんにも生き続けようとする生理的力があります。そして人とつながろうとする社会力があります。あかちゃんは泣くことで生きるニーズを発信し他者とつながろうとしています。それに答えてくれる他者との身体的接触や視線の交換や情動の交流の心地よさを通して自分の存在の尊さを確認していきます。その他に赤ちゃんはその子にしかない個性という力・パワーを持っています。

図2
図2に変更 右下のスペースに下の外的抑圧の具体例を入れる
冷たい関わり

このあかちゃんの存在の中心には、目で見ることはできないけれど、大変に重要な力が内在しています。それは人権という生きる力です。あかちゃんからおとしよりまで、だれでもが持っていて、それがないと安心して健康に生きられないもの、それが人権です。人権とはわたしたちの生きる力です。人権とはわたしがわたしであることを大切に思う心の力です。わたしを尊重し、他者を尊重する力です。

赤ちゃんは自分の存在の大切さを言葉では認識していません。でもまわりの人から受け入れられ、大切にされ、目を交わし合ったり、身体接触の安心感と心地よさを感じることで自分の存在の尊さを知っていきます。そして潜在的にもっている様々の力を豊かにしていくのです。私達はみな、自分の持つパワーを充分に発揮させて生きる可能体として生まれてきました。この「私」の諸々のパワーを育ててくれるのは、「私」を条件ぬきで、まるごと受け入れてくれる他者との信頼関係です。とりわけ乳幼児期の保護者との基本的信頼関係、無条件で受け入れられ愛されるという安心の体験とその記憶はその後の人生を通して、その人の生きる力のみなもとになり、困難をも跳ね返すレジリアンスの発動を可能にするのです。

 

外的抑圧と内的抑圧

しかし残念なことに、現実はこのような受容の関係ばかりが子どものまわりにあるわけではありません。自分の持つもろもろのパワーを傷つける否定的な力に人は次々と出会っていきます。こうした外からの力は必ずしもむき出しの敵意や悪意に満ちた抑圧として子どもに向けられるわけではありません。

外からの抑圧のもっとも卑近な例は「比較」です。比較は幼少の時だけでなく、学校で、受験競争の中で、職場で、、、と一生私達につきまとい、私達の本来のパワーをそぎ落としていきます。「無償の愛」ではなく「条件付きの親の愛情」もこのパワーを傷つけます。もろもろの差別や偏見も本来のパワーを奪っていきます。さらに暴力も個人としての境界線を破り侵入してくる力です。虐待、体罰、いじめ、レイプ、両親間の暴力を目にするなどの暴力の最大の残酷さはあざや身体的外傷ではなく、被害者から自分を大切に思う心と自分への自信を奪い、自分の尊さ、自分の素晴らしさを信じられなくしてしまうことにあります。

外的抑圧は比較、いじめ、体罰、虐待と様々な形をとりながらも、共通するひとつのメッセージを人に送り続けます。それは「あんたはたいした人間じゃないんだよ」という嘘のメッセージです。人はしばしばその外からのメッセージを信じてしまい、みずからを抑圧してしまいます。それを筆者は内的抑圧と呼んでいます。「そうか。自分はたいした存在ではない、つまらない人間なのか」と。でも、わたしたちは誰でも皆たいした人間なのです。「私」はただ「私」であるだけで、もう充分にたいした人間です。生きたいという生命力を持ち、人と繋がって生きようとする力を持ち、女である、男である、障害があるないといった私ならではの個性を持った、かけがえのないたいした人間です。

エンパワメントとはこのような外的抑圧をなくすこと、内的抑圧をへらしていくことで、本来持っているもろもろの力、すなわち人権という自分を尊重する生きる力や、人とつながる社会力や、レジリアンス(弾力性)などを取り戻すことです。外的抑圧をなくすためには法律、システムの改革が必要になります。社会の差別意識や偏見を変える啓発活動も不可欠です。内的抑圧を無くすためには、社会から受けた不要なメッセージをひとつひとつとりのぞいていき、「私」の存在の大切さを感じていくことです。
家族や地域の暖かい人間関係の絆を一つでも持っていたならば、どんな困難な状況をもしなやかな適応力で生き抜くレジリアンス(弾力性)の発動が可能になります。
エンパワメントとは、社会の偏見や差別意識をなくす活動によって外的抑圧を減らし、同時に、自分を否定してきた内的抑圧の矢印の方向を外に向けることによって、誰でもが持っている生命力や個性をふたたび生き生きと息吹かせることにほかなりません。

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