迷惑—日本人を呪縛する言葉
英語に翻訳するのが難しい言葉の一つに「迷惑をかける」がある。
あえて訳すならばtroublesome(問題をもたらす)とかannoying (うるさい、煩わしい)となるが、どれも迷惑の意味とはだいぶ違う。
的確な訳語がないのは、この言葉の意味するところが日本特有の同調社会規範を背景にしているからだ。
いじめを受けていたまま相談できないでいた子がようやく話しに来てくれた時、「迷惑になると思って言えなかった」と言ったので愕然としたことがある。「話しに来てくれてありがとう。迷惑なことなんかまるでないよ」とまずは答えたが、この子の中では、人と違うこと、目立つことをするのは「迷惑」なのだった。
「うちの子は他の子達のように早く話せませんので、ご迷惑おかけしますがよろしくお願いします」と母親が教師に言う時も、人と違うことが「迷惑」とみなされている。この国では、「違い」は「間違い」なのである。
自閉傾向の子を持つ親は、集団の中で子どもが奇声をあげたりジャンプしたりと人と違う反応をすることに、他の親からの「迷惑」の眼差しを全身に感じる。
「迷惑です」と言う言葉は冷酷だ。人と違うことをしないよう有無を言わせず縛り付けることのできる怖い言葉だ。
2018年発表のベネッセ教育総合研究所の「幼児期の家庭教育国際調査」は日本、中国、インドネシア、フィンランドの幼児を持つ母親を対象とした調査で興味深い結果を指摘した。幼児の将来に何を期待するかの質問に対して日本の母親は「他人に迷惑をかけない人」が46.1%で、他三国の10%〜20%代に比べてダントツに高かったのである。
筆者が実施する虐待に至ってしまった親の回復のためのMY TREEペアレンツプログラムに参加した母親は、子供の頃から「人の迷惑にならないように」と両親から徹底してしつけられたことを語った。「だから私も5歳の息子にそれを要求してしまいます。『迷惑にならないようにね』って。他人の目ばかり気にして育てて来ました。それが叩くしつけにエスカレートしたんです」
自民党が2012年に発表した日本国憲法改定草案は、基本的人権の定義を大きく変える文言となっていて背筋が寒くなる。
現行憲法の第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党改憲草案第 十 三 条
全 て 国 民 は 、 人 と し て 尊 重 さ れ る。 生 命 、 自 由 及 び 幸 福追 求 に 対 す る 国 民 の 権 利 に つ い て は 、公 益 及 び 公 の 秩 序 に 反 し な い 限 り 、 立 法 そ の 他 の 国 政 の 上 で、 最 大 限 に 尊 重 さ れ な け れ ば な ら な い
自民党の憲法草案に関するQ&Aには次のようにある。
(「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に改めた理由)
「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活の ことを意味します。個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。」(下線は森田)
これを読んだ時、「出た!呪縛の言葉が」と思った。「個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならない」の文は「迷惑」の定義がわからないので説明として意味をなしていない。個人が人権を主張するときに問題になるのはその主張が他の人の人権を侵害するときである。現行の「公共の福祉」とはそのことを示している。誰が何を持って迷惑とするのか、そのことが全くわからない「公益及び公の秩序」は、公(政府)の利益と秩序に反する行動は許されないと明言している以外の読み方があるのだろうか。
相模原事件の被告植松聖(当時26歳)は、重度の障がい者は国家にとって迷惑な存在で、生きている価値が無いとの主張を衆議院議長と安倍首相宛に直訴した上で、その通りに実行した。2年半後の裁判の公判においても「意思疎通が取れない人は社会の迷惑」と殺した理由を断言し続けている。彼もまた「迷惑」の呪いに縛り付けられている哀しい日本人の一人だ。
2020年アカデミー賞のメイクアップ賞を受賞したカズ・ヒロ(昨年米国に帰化)は「日本の文化は疲れる。夢をかなえるのは難しい」と語っていた。「人の迷惑にならないように」の縛りの中で生きることは疲れる。そして夢を持つことすら難しい。
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