「コラム」タグの記事一覧

不安の組織化に抵抗する

不安の組織化に抵抗する 森田ゆり 2005年5月号 最近、『安心』という言葉が、マスメディアのニュースやコマーシャルの中で やたらに使用頻度が増えている。ある日の新聞の広告から拾い出してみただけでもこんなにあった。「安心便利なキャッシングUFJグループ」「癌・交通事故も安心の医療総合保険」「アリコに電話して、安心をゲット」「セキュリティーハウス、安心の全国ネットワーク」等々。「安心」という健康月刊雑誌の創刊の広告もあった。 「安心」が消費者の購買動機のキーワードなのだとしたら、それは人々の不安感の広がりを示している。 「安心」を売るビジネスが繁盛するのだとしたら、それは人々の不安が高まっていることの証しと言えよう。 では、あなたはどうだろう? あなたが最近不安に思っていることは? 以下の項目に当てはまるものにいくつでも丸印をつけてみよう。 日本経済・景気、天災地変、戦争、環境破壊、日本国憲法、日本の未来、世界の未来、地球の未来、老後、年金、交通事故、泥棒、通り魔、強姦、子どもの誘拐、試験、就職・収入、結婚、病気,その他(  ) いくつの項目に丸がついただろうか。10年前に同じ質問をしたら、あなたの丸のつき方はどう違っていただろうか。 4月9日に発表された内閣府の世論調査によると、「日本で一番悪化しているのは?」の質問に「治安」が47.9%で最も多かった。同じ質問を始めた98年以降毎回「景気」「雇用条件」「国の財政」の順に「悪くなっている」との回答が高かったのだが、「治安」は昨年は「国の財政」を抜き、今年は「景気」も「雇用条件」も抜いて初めてトップになった。 刑法犯の認知件数は02年をピークに減少しているにもかかわらず、治安悪化への不安感が増大しているのはなぜなのだろう。 今、わたしたちは不安の時代に生きている。不安の要因は人によって異なっても、共通することは、不安は誰にとってもたいへん危険な感情だということだ。以下、不安の危険な要素をあげてみた。 1) 不安は伝染する 2) 不安に圧倒されると人は理性的判断をできなくなり愚かな行動や選択をしてしまう。 3) 不安はお金になる 4) 不安は支配の道具に使われる 5) 世論をつくりだすために、不安は人工的に煽られ、わたしたちはそれに翻弄される。 池田小事件、奈良誘拐殺人事件、寝屋川事件など学校を舞台にした陰惨な事件が続き、今、学校は不安のるつぼのようだ。まさに上記の不安の5つの危険因子すべてが学校現場に舞い飛んでいる。 1) マスコミの過剰報道もあって、特異な事件の恐ろしさばかりが強調され、不安が広がっている。→不安は伝染する 2) 不安に圧倒されると、防止力は低いとわかっていても、集団下校、パトロール隊、あいさつ運動、不審者ウオッチング、法の厳罰化などの対策を一時的にすることで安心を得ようとする。しかし、これらの対策は長くは続けられないばかりか、犯罪の抑止効果は低いことがわかっている。 →不安にかられると人は理性的判断をできなくなる 3) 学校では、防犯ブザーの配布、防犯カメラの設置、警備員の配置などが検討され、街では防犯グッズが売れている。人は不安に駆られると、外にある物に頼って安心と安全を求めようとする。だから不安をあおればあおるほど、人々は「安心」を買い求めようとするのだ。消費社会は人々の「不安」を食い物にして肥大する。 →不安は金になる でもお金で買える物としての「安心」は幻に過ぎないことが多い。防犯ブザーをいつも持ち歩いていても、危険に見舞われたその瞬間に、ランドセルやバッグの中に納まっていたら使えない。だから自分の外に「安心」のツールを求めるのではなく、自分の内に「安心」ツールを持つという視点を持ちたい。 たとえばCAP(子どもへの暴力防止)プログラムが教える「特別な叫び声」ならば、必要な瞬間に「あれ、どこいっちゃった」と捜さなくてよい。それはいつでもどこでも自分とともにあるもの。大切な自分をなんとかして守りたいとの思いさえあれば、即座に使うことができるもの。このように子どもたちの内にある力を活用する対策こそが実効力を持つ。 防犯カメラや警備員の配置のためにお金を使うぐらいなら、研修予算をたっぷりとって、教職員も護身術を習って、一人一人が自分への自信をつけて、内なる「安心」を手にしてほしい。ただし、その護身術は、誰にもある内なる力を活用するエンパワメントの視点に立った研修でないと、不安を一層あおるばかりで逆効果になることに気をつけてほしい。 4)5)不安にあおられて防犯対策が進むと、治安・防犯のためなら、個人の事情やプライバシーの保護は後回し、との考えが主流になり、人権尊重の原則が危うくなる。3~4年前に警視庁が『中国人かなと思ったら110番』と呼びかけ文の入ったチラシを町内会に配って、中国大使館から抗議された出来事は、この顕著な例だ。 →不安は煽られる。 9.11事件後、米国議会が圧倒的多数でアフガニスタン爆撃に同意したのも、イラク攻撃に同意したのも、煽られた不安の持つ伝染力と金力と思考停止の集団心理の結果だった。テロ対策の名目のもとに、個人の人権への国家の介入が許容される「愛国法」が充分な論議のないまま短期間に成立してしまったのも、9.11事件の衝撃からくる集団的「不安」の持つ伝染力による。 まるでかつて50年代の赤狩り旋風(レッドパージ)の時代に逆戻りしたように、米国国内での市民への監視は厳しくなり、言論統制が進んでいる。 ヒトラーの右腕、軍事参謀だったヘルマン・ゲーリング(1945年の次のスピーチは、支配者が不安をいかに活用するかを見事に語っている。 「もちろん人々は戦争を欲しない。しかし結局は国の指導者が政策を決定する、そして、人々をその政策に引きずりこむのは、実に簡単なことだ。それは民主政治だろうが、ファシズム独裁政治だろうが議会政治だろうが共産主義独裁政治だろうが変わりは無い。反対の声があろうがなかろうが、人々が政治指導者の望むようになる簡単な方法とは、、、。国が攻撃されたと彼らに告げればいいだけだ。それでも戦争回避を主張する者たちには、愛国心がないと批判すればよい。そして国を更なる危険にさらすこと、これだけで充分だ。」 →不安は支配の道具に使われる。 不安の時代に、不安の伝染力から自由であることはむずかしい。恐しい事件が報道されたり、他国からの攻撃行動が報道されれば、誰でも不安をつのらせる。でも、その一般市民の不安感情を煽り、組織化して、一握りの人々の利権や野望のために政治や社会改造がされていく構造をしっかりと見据えていなければならない。 たとえば、今起きている中国での反日運動のエスカレートに関する報道や北朝鮮の核問題に関する報道は、今後わたしたちにどのような不安をもたらすのだろうか。その不安を利用して、軍事防衛力の増強を受け入れるキャンペーンが浸透することはないだろうか。 特に今年は、憲法「改正」、教育基本法「改正」の動きの中で、市民の抱く不安を組織化して、市民の権利を制限し、言論統制を厳しくし、軍事力を優先するような「改正」となってしまわないように、しっかりとアンテナをはりめぐらそう。 憲法とはそもそも、国の主権者である国民の権利と人権を政治権力が侵害することのないように、時の政治権力を握った者たちが守らなければならない大前提のことだ。権力の行使はこの範囲内でやらなければいけないと憲法を定めて、政治権力の暴走を抑制するためにある。それなのに、改憲論議では、「憲法には国民の権利ばかりが書いてあるから義務も定めよう」との稚拙な案が大まじめに提出されている。 民主主義の基本も分かっていない人たちによって、国民主権の民主主義社会の根本となる憲法の本質的な存在意義そのものが奪われてしまうかもしれないのである。改憲論者たちの民主主義理解の程度の低さにはあきれて悲しくなる。しかし現実は、中国や北朝鮮への不安や、凶悪犯罪への不安がふりまかれると、人々はゲーリングの言ったように、いとも簡単に不安に煽られて思考停止状態になって、政治権力者の言うなりになってしまうのである。 不安の組織化に抵抗しよう。 不安を感じたら、まずは「不安は危険!」と自分に警告を発する。次に、その不安の感情を他者とわかちあう。わかちあうことで、不安が人工的に煽られたものかどうかを見極めよう。不安や恐怖の強い感情は、わたしたちの理性や思考力や価値観を凌駕する。だから不安を他者とわかちあうことで、不安がもたらす「思考停止」状態から抜け出す。あなたの職場、地域コミュニティーが、防犯・治安あるいは国家の安全のために個人の犠牲を求めるような対策を打ち出したときには、「ちょっと待って、何かおかしい」と声をだそう。 わたしは自分の行っているアサーティブ・コミュニケーションの研修の中で「ちょっと待ったスキル」を教えているのだが、こんな場合も使えるはずだ。 「相手に反対する意見を言いたいのだが、、、」」「これはとんでもない、止めてもらいたい」とか「重要なことをわかってもらいたいでも、どう言えばいいか分からない。」そんなときは、黙ってしまうのではなく、「ちょっと待ってください」ととりあえず言ってしまう。 なにはともあれ、まず時間を止めるのだ。黙っていたら進行していってしまう時間を止めてから、相手に理解してもらえそうな言い方、やり方を考えるのでもいい。 不安の組織化に抵抗するために、わたしたちが持つリソースはつながることで生まれるちからにほかならない。不安をわかちあうことで、不安は安心感に変わる。出会い、つながることで、わたしたちは、一人一人の内なる安心を組織しよう。

危機管理の基本はコミュニケーション

危機管理の基本はコミュニケーション 2006年8月  森田ゆり 子どもたちから道草と放課後が奪われてしまった。 不安に翻弄された大人たちが侵されている「子どもの防犯安全対策」という新種の伝染病の蔓延によって。 戦後六十余年、子ども文化がこのような危機にみまわれたことがあっただろうか。子どもから道草と放課後が奪われたら、子ども文化は死ぬ。 下校時の子どもを路上の犯罪から守るのだと、日本中のほとんどの小学校で一斉集団登下校が行われている。 「子どもを決して一人にさせない」と、2万団体100万人の見守りパトロール隊が黄色いジャケット、腕章をつけて通学路に立っている。校門がオートロック化され、教師は生徒を同じ時間に一斉下校させなければならない。 子どもが放課後残って校庭で遊ぶことはもうない。昨日と違う通りを道草しながら帰ることはもうない。 子どもたちは、大人によって定められた時間の中で生きることに大きな安心を得ている一方、そこから大人の目の届かない時間と空間をかすめ取って、小さな自由、小さな冒険、小さな反抗、小さなスリルを探求する道草の途上でこそ生きる力をたくわえる。 わたしもあなたもそのような大人から自由な時間の中でこそ、自分で感じ、自分で考え、自分で行動選択する力を蓄えてきたのではなかったか。 マスメディアは治安の悪化をセンセーショナルに報道するが、犯罪統計数値を調べてみると、子どもに対する刑法犯罪も凶悪犯罪も明確に減少している。 今は比較的犯罪の少ない安全な時代なのである。にもかかわらず事件が起きるたびに人々の不安があおられ増殖する。 今、「安心、安全」のうたい文句ほど恐ろしいものはない。「安心安全のため」をふりかざせばどんなことでもまかり通ってしまいそうだ。 「安心、安全のため」を名目にした新しい法律や条令が続々と制定または検討されている。「生活安全条例」「国民保護法協議会条例」「入管法の改訂」「周辺事態法の改定」「住基ネット」「共謀罪」「ゲートキーパー制度」等々。 こうした制度が一斉に稼動し始めたとき、わたしたちの町は不安と不信から互いを監視し、異質な人を不審者扱いする寛容と多様性を失った息苦しさによどんだ町になっていく。人々は不安情報に翻弄され、思考停止になり、自ら問題解決することをやめ、警察や軍隊や政府に決定を預けていく。 もうそろそろ目を覚まそう。熱病から冷めて自分で感じ、自分で考えることを再開しよう。 学校が、保護者が、警察からの溢れんばかりの不審者情報に一喜一憂し、路上の不審者探しに忙しい時、子どもたちは路上よりもむしろ家庭や学校内での暴力に傷つき苦しみ、自傷や他傷やテレクラや引きこもりを繰り返している。 そうすることで大人たちに「わたしをしっかり見て欲しい」「ぼくの話を聞いて欲しい」「わたしの不安に気がついて」と発信し続けている。 危機管理の基本はコミュニケーションではなかったのか。 子どもを犯罪から守る効果的な方法は、防犯カメラやICタグ監視システムや防犯ブザーやサスマタやその他の防犯グッズなどの物に頼ることではない。 なぜ自分の外にばかり安心を求めるのだろう。自分の内に安心を求め、その安心を大きく育てよう。 内なる安心のみなもとは、一人ひとりの人権感覚にほかならない。あなたはどこまでも大切な人だよ、だから怖いと思ったら自分を守るために出来ることがある。 その出来ることを子どもたちに伝えていきたい。それこそが最も効果的な防犯、内なる安心のネットワーク化である。 不安は伝染する。 しかし勇気もまた伝染するのだから。 (森田ゆり著『子どもが出会う犯罪と暴力:防犯対策の幻想』序文より引用)

森田ゆり コラム・オピニオン

危機管理の基本はコミュニケーション 不安の組織化に抵抗しよう

サブコンテンツ

このページの先頭へ