危機管理の基本はコミュニケーション

危機管理の基本はコミュニケーション
2006年8月  森田ゆり

子どもたちから道草と放課後が奪われてしまった。

不安に翻弄された大人たちが侵されている「子どもの防犯安全対策」という新種の伝染病の蔓延によって。

戦後六十余年、子ども文化がこのような危機にみまわれたことがあっただろうか。子どもから道草と放課後が奪われたら、子ども文化は死ぬ。

下校時の子どもを路上の犯罪から守るのだと、日本中のほとんどの小学校で一斉集団登下校が行われている。

「子どもを決して一人にさせない」と、2万団体100万人の見守りパトロール隊が黄色いジャケット、腕章をつけて通学路に立っている。校門がオートロック化され、教師は生徒を同じ時間に一斉下校させなければならない。

子どもが放課後残って校庭で遊ぶことはもうない。昨日と違う通りを道草しながら帰ることはもうない。

子どもたちは、大人によって定められた時間の中で生きることに大きな安心を得ている一方、そこから大人の目の届かない時間と空間をかすめ取って、小さな自由、小さな冒険、小さな反抗、小さなスリルを探求する道草の途上でこそ生きる力をたくわえる。

わたしもあなたもそのような大人から自由な時間の中でこそ、自分で感じ、自分で考え、自分で行動選択する力を蓄えてきたのではなかったか。

マスメディアは治安の悪化をセンセーショナルに報道するが、犯罪統計数値を調べてみると、子どもに対する刑法犯罪も凶悪犯罪も明確に減少している。

今は比較的犯罪の少ない安全な時代なのである。にもかかわらず事件が起きるたびに人々の不安があおられ増殖する。

今、「安心、安全」のうたい文句ほど恐ろしいものはない。「安心安全のため」をふりかざせばどんなことでもまかり通ってしまいそうだ。

「安心、安全のため」を名目にした新しい法律や条令が続々と制定または検討されている。「生活安全条例」「国民保護法協議会条例」「入管法の改訂」「周辺事態法の改定」「住基ネット」「共謀罪」「ゲートキーパー制度」等々。

こうした制度が一斉に稼動し始めたとき、わたしたちの町は不安と不信から互いを監視し、異質な人を不審者扱いする寛容と多様性を失った息苦しさによどんだ町になっていく。人々は不安情報に翻弄され、思考停止になり、自ら問題解決することをやめ、警察や軍隊や政府に決定を預けていく。

もうそろそろ目を覚まそう。熱病から冷めて自分で感じ、自分で考えることを再開しよう。

学校が、保護者が、警察からの溢れんばかりの不審者情報に一喜一憂し、路上の不審者探しに忙しい時、子どもたちは路上よりもむしろ家庭や学校内での暴力に傷つき苦しみ、自傷や他傷やテレクラや引きこもりを繰り返している。

そうすることで大人たちに「わたしをしっかり見て欲しい」「ぼくの話を聞いて欲しい」「わたしの不安に気がついて」と発信し続けている。

危機管理の基本はコミュニケーションではなかったのか。

子どもを犯罪から守る効果的な方法は、防犯カメラやICタグ監視システムや防犯ブザーやサスマタやその他の防犯グッズなどの物に頼ることではない。

なぜ自分の外にばかり安心を求めるのだろう。自分の内に安心を求め、その安心を大きく育てよう。

内なる安心のみなもとは、一人ひとりの人権感覚にほかならない。あなたはどこまでも大切な人だよ、だから怖いと思ったら自分を守るために出来ることがある。

その出来ることを子どもたちに伝えていきたい。それこそが最も効果的な防犯、内なる安心のネットワーク化である。

不安は伝染する。

しかし勇気もまた伝染するのだから。

(森田ゆり著『子どもが出会う犯罪と暴力:防犯対策の幻想』序文より引用)

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