先住民族の歴史的トラウマ:デニス・バンクスの娘の語り

森田ゆり
月刊「部落解放」2018年12月号 連載:Diversity Now多様性の今 17

デニス・バンクスを追悼して

タシーナ・レイマは昨年10月に80歳で亡くなったアメリカン・インディアン運動のリーダー、デニス・バンクスの娘だ。彼女は夫とともにパインリッジ・インディアン居留地で子どもたちにラコタ語で、ラコタの伝統と文化を教える学校を運営している。
彼女とは30年ぶりの再会だった。ニューヨーク州北部のカナダ国境に近いグラフトンという人口2千人余りの小さな町、かつてのモホーク族の聖地に建つピースパゴダの25周年セレモニーがこの10月6日に開かれ、平和と人権のために祈る100人ほどの人々が参加した。私はその司会、タシーナは基調講演者だった。1988年にデニスと私の共著『聖なる魂〜現代アメリカン・インディアン・リーダーの半生』が朝日ジャーナル・ノンフクション大賞を受賞した夏、デニスと彼の家族に伴って日本を旅した時以来だ。あの時彼女はまだ小学生だった。

セレモニーではタシーナの講演に多くの人々が涙を流した。

 

父について

▪タシーナの語り
「これからお話しすることは、私の家族の離別と和解と癒しの物語です。

誰でもそうですが、私の父もいくつもの顔を持つ人でした。AIMリーダーの活動家として世界に知られるデニス・バンクス、友人からの電話には夜中でも答える親しみ深い友、兄姉をどこまでも大切にする弟、いつも新しいアイディアとプロジェクトを創造している作家、そして父親。しかもインディアン寄宿学校のサバイバーだった父親。
寄宿学校というアメリカ政府によるインディアンの文化的ジェノサイドの歴史を人々は知らされていません。そのトラウマの大きさを父の経験からお話ししましょう。

<家族の離別:寄宿学校>
寄宿学校政策によって起きた意図的かつ組織的な家族の分離は、おそらく今日に到るまで最も成功した米国のインディアン政策だったと言えます。この政策はインディアン家族を分離し破壊することを目的としました。私はその政策の産物です。父はその政策の直接の産物で、結果私たちの家族の絆は壊されたのです。

父は4歳の時に、母親と祖父母と一緒に住んでいたオジブエ居留地の家から引き離され、何百マイルも離れたパイプストーン寄宿学校へ兄と姉と一緒に送られました。BIA(インディアン局)から子どもたちを寄宿学校へ送ることを告げる手紙を受け取った母親は、それを拒否することはできませんでした。

パイプストーン寄宿学校では、彼が唯一知っていた言葉オジブエ語を話すことは許されず、母語を口にした子は殴られました。長髪は刈り上げられ、DDTを振り撒かれ、軍隊服のような制服を着せられました。規則だらけの厳しい環境で、それらを破ると殴打や屈辱的な見せしめによる容赦ない懲罰があり、幼少の子どもの心は潰されました。父は愛と優しさを知らずに育ったのです。

少し大きくなると、彼は学校から脱走を試みますが、遠くまで行けることはなく、捕まって学校に連れ戻されひどい懲罰を受けました。脱走、連れ戻し、そして懲罰という自暴自棄な行動サイクルは15歳で遂に成功するまで何度も繰り返されました。その後16歳で空軍に入隊します。

寄宿学校政策は彼の家族親族との絆を断ち切ることに成功しました。彼の母語を取り上げることに成功しました。彼の出生と文化を忘れさせることに成功しました。オジブエであること、インディアンであることを奪い、アイデンティの無いただのアメリカ人に仕立てることに成功しました。それこそが寄宿学校政策の目的、文化的ジェノサイド「インディアンを殺し、人を残せ」(陸軍将軍ヘンリー・プラットの言葉)だったのです。

<和解>
2006年に私たちは父の母ベルタ・バンクスとパイプストーン学校管理者の手紙を発見しました。それらはベルタから息子のバンクスに宛てた10通以上の封をきっていない手紙でした。またベルタと学校とのやり取りの手紙もあり、その中には5ドル札が入っていて、このお金で息子をバスに乗せて家に帰して欲しいと懇願しているものもありました。しかしデニスは病気で旅はできないと書いた手紙が送られ、ベルタの願いが受け入れられることはありませんでした。

私はこれらの手紙をカンサスシティのナショナルアーカイブの寄宿学校の記録の中に見つけました。見つけた手紙を年代順に整理して、その晩に父に電話で読み上げました。生まれて初めて私は父が大声で泣くのを聞いたのです。泣きながら彼は、母親は自分を寄宿学校に放棄したと思い込み、ずっと憎んでいたことを激しく悔やみました。私が手紙を電話で読んで聞かせるまで、母親が手紙を送っていたことを知らなかったのです。パイプストーンに行って以来ずっと、母は自分を愛することを止めてしまったのだと思い込んでいたのです。母親が何度も彼に手を差し伸べ、家に連れ戻そうとしたことを知らずに、母親を憎みながら死なせてしまったことを悔やんで、その夜の電話で父は泣き続けました。

これはアメリカ政府による犯罪です。他の何万人もの先住民の子どもたちに対してもなされた犯罪です。文化的ジェノサイド、私たちの家族の強さと絆を切り壊す意図的な行為でした。私の祖母の手紙を父に渡さなかったのは彼らのつながりを切るためで、それは成功したのです。彼らは二度と再び生きて心のつながりを持つことはなかったからです。

<癒し>
父の最期の12年間、驚くべき癒しと回復を目にすることができました。手紙の発見は父に大きな平安をもたらしました。彼のスピリットは遂に癒されたのです。母親からの手紙は、彼の母への愛の心を取り戻させてくれました。幼児にして引き離された愛、手紙が隠されるたびに受け取ることを許されなかった母の愛。一度ではなく、二度ではなく、何度も何度も何年にも渡って。それはゆっくりとした残酷な組織的な少年の純粋スピリットの破壊でした。

皆さんは「歴史的トラウマ」という概念をご存知と思います。これこそが私たちインディアンコミュニティの最大の歴史的トラウマです。

<歴史的トラウマ>
歴史的トラウマは世界中の先住民にとって、そして私たちオグララ族にとっても極めて深刻なテーマです。それは激しい怒りと深い悲しみの感情を呼び覚まし、米国政府による暗黒の歴史を思い起こさせます。

私自身の家でも私はこの歴史的トラウマの影響の元に生きています。寄宿学校に措置された父、幼少期に愛と優しさと慈しみを経験したことのなかった父を私は持ったのです。自分が父親になった時、家族の愛に包まれるという健康な子ども時代の体験が無かったために、親としてのスキルに欠けていました。そのために私の兄弟姉妹の何人もが健康な境界線を持てず、アルコールやドラッグ依存に陥っています。

<負のサイクルを止める>

私の二人の妹はアルコールとドラッグの依存症で、健康で安全な環境で子どもを育てることができないため、今私は自分の子どもの他に彼女たちの子どもも三人育てています。

15年前に私は父に手紙を書き、彼が私の望む父親でなかったことを許しました。私の成長を丁寧に見守ってくれなかったことを許しました。そしてこれからは健康で愛し合う親子の関係を持とうと提案しました。その手紙を電話で読み上げた時、父は勇気を持って言ってくれてありがとうと感謝してくれました。そして私の提案を受け入れました。以来、私は父と美しい関係を持ち続けました。

10年前、彼は笑いながら言いました。「今や、お父さんがどんなものなのかだけでなく、娘と親友のお父さんがどんなものなのかがわかったよ。お前は最良の親友の一人だ。」

彼と私はどんなことでも何時間でも話し続けることができました。何も話すことがなくてもただ一緒に座っているだけでも、大きな安心と心地よさを互いに感じていたのです。

彼は2017年10月29日にスピリット世界に旅立ちました。80歳でした。これ以上望みようの無い豊かな一生でした。

リーチレイクのオジブエコミュニティの貧しい家の土床の上で生まれ、寄宿学校の酷い子ども時代を生き延び、先住民の人権のために闘い、インディアンを取り戻す教育のために闘い、正義と平等のために闘い、破られた条約を認めさせるために闘い、先住民の伝統と文化と言語の再興のために闘い、大地がバランスとハーモニーを取り戻すために闘いました。

彼はずっと働き続けました。亡くなった時は本を書いていました。それはオギチダ=オジブエ戦士であることについての本でした。私たちは11月10日にリーチレイクのパウアウで彼の一周忌を祈念します。

<檻から発信された希望>

父が1984年11月5日に刑務所の檻から発信した言葉を読んで、私の話を終えます。

「・・・我々は強くあるためにお互いに支え合うことが必要だ。互いに頼りあえる時、自分のエネルギーと存在を差し出して、まるで輸血のように疲れた人をサポートできる。我々の愛と力を分ちあう行いがスピリチュアリティを伴った時、それは奇跡のように永続する効果を発揮する。それは正義を求める思いを膨らませ、達成目的に向けて我々をつなぐ。

我々の闘いはまだまだ続く。時には達成地点があまりに遠く見えることがある。しかし我々の揺るぐことのない意志があれば、人間が作り出したどのような困難をも乗り越えていくことができると信じている。それが我々の希望だ。それが我々の未来だ。

愛と祈りの内に
デニス・バンクス
1984年11月4日」

 

木々に、風に宿っていたデニスの存在

セレモニーは外で行われたため、タシーナのスピーチの間中、周りの木々が風でしなるたびに、そこにデニスのスピリットが降りてきていると感じたのは私だけではなかったと思う。

ニス・バンクスの寄宿学校での日々は、「聖なる魂」(デニス・バンクス&森田ゆり共著 朝日文庫)の第二章に詳しく書いたので読んでほしい。母との別れの記憶、寄宿学校での過酷な日々、母との再会をデニスは感情豊かに克明に語っている。

 

文化ジェノサイドという過ち

先住民族の文化的ジェノサイドが児童福祉政策としてつい最近まで行われていたことは、その分野を専門にしている者として広く知らせる責任から、今まで私はいくつかの著書で先住民寄宿学校について書いている。その一つから引用する。

「アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアの児童福祉の歴史の最大の汚点は、先住民族への同化政策に基づいた寄宿学校制度でした。貧困にあえぐ居留地の先住民家族を説得、時には強制して子どもたちをはるか遠隔地の寄宿学校に入れさせ、それぞれの部族の言葉や服装や長髪を禁じたことによって子どもたちは家族、親族とのコミュニケーションを断絶させられ、根無し草となりました。1879年から1970年代までの100年の間に先住民家族は何千年と続いてきた言語を失い、儀式や伝統の継承を断絶させられる文化的ジェノサイド(虐殺)を経験したのです。児童福祉政策がその先鋒となったのでした。今日も続く先住民家族が抱える世代を超えて続くトラウマは、突出した自殺率の高さ、アルコール依存率、高い死亡率、貧困などの社会問題を抱え続けることに大きく影響しています。」(「虐待・親へもケアを」森田ゆり著 築地書館)

タシーナはこのセレモニーでスピーチをする前日に,ペンシルベニア州のカーライルで開かれたthe National Native American Boarding School Healing Coalitionの会議の写真を私に見せてくれた。カーライルといえば、アメリカの最初で最大のインディアン寄宿学校があったところだ。1879年に陸軍将軍ヘンリー・プラットによって設立されたその学校はその後各地のインディアン寄宿学校のモデルとなった。1918年に閉校するまでにカーライルには140部族から来た1万人以上の子どもがいた。タシーナが見せてくれた写真は、寄宿学校滞在中に結核などの病気で死んだ子どもたちの墓地で180以上の墓が並んでいる。実際にはもっとずっと多くの子どもたちが死んだが大半の遺体は親元に帰されたとのことだ。

 

トラウマへの賠償

カナダやニュージーランドでは、21世紀の初め頃から、寄宿学校制度の同化政策が先住民に世代を超えた歴史的トラウマをもたらしたことを政府が認め謝罪し、賠償し、その歴史を検証し、広く知らしめる国家的取り組みが展開している。カナダで2008年から始まったその取り組みは、政府を糾弾、処罰を要求するのではなく、南アフリカのマンデラ元大統領らがとった「真実と和解の委員会」方式で行われてきた。カナダでは約15万人のフアーストネーション(先住民のことをカナダではこう呼ぶ)の子どもたちが寄宿学校に入れられ、言語や文化を失い、3200人が在校中に伝染病などで死亡した。この間の歴史検証が進む中で、おそらくその5〜10倍の数の子どもが死んでいると推測されること、教師や職員による体罰、身体虐待、性的虐待が横行していたことなどが明らかにされている。トルドー首相は1917年にイヌイット族の子どもたちを「文明化する」との教育福祉政策の元、100年あまり続いたこの同化政策に対してカナダ政府の犯した罪を涙ながらに謝罪し、一人平均2万7千ドルの補償金が支払われた。

アメリカでも同じ動きを作っていこうとの目的で、2012年からNational Native American Boarding School Healing Coalitionがミネアポリスにセンターを置き活動を始めた。

セレモニーの後、タシーナは文化的ジェノサイドのサバイバーとしてのデニス・バンクスとその子どもたちにも及んだ歴史的トラウマについては、今回初めて人前で話したこと、でもこれから何度でも話していくつもりだと私に語った。

加えて別れ際に、「私は10代の頃、父を訪れて世界中から来るたくさんの人たちがうっとうしくて、ずいぶんと冷淡な態度をとっていたでしょ。今思うと失礼なガキだったこと、申し訳なくて謝りたいと思っているの」とも言った。失礼な態度は私の記憶にはないけれど、彼女の誠実な人格者のような言葉と、自分の子どもの他に6人も子どもを育てながらラコタ文化と言語の復興に全力を注ぐ彼女に大地にどっしりと根を下ろしたパワフルな女性リーダーの姿を見て、デニスにガッツサインを送りたくなった。

本誌2018年1月号 連載 多様性の今8「追悼 デニス・バンクス・ナウ・カミック氏」森田ゆり
も併せて読んでください。(編集部)
「聖なる魂」デニスバンクス&森田ゆり著(朝日文庫)

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