「2019年12月」の記事一覧(2 / 2ページ)

マイケル・ジャクソンと子どもの癒し・世界の癒し

『部落解放』連載「多様性の今9」2018年4月号掲載 編集部の好意で転載許可 森田ゆり(作家) 誤解され続けたポップ・スター ぼくの子ども時代を知っている? ぼくには子ども時代がなかった。 人々は、ぼくは変だという。 人々は、ぼくは普通じゃないという。 ぼくは、ただ子どものような単純なことが大好きなだけだ。 つらい子ども時代だったんだ。 ぼくを判断する前に、君の心の中をのぞいて。そしてぼくをわかってほしい。           (Childhood 1995年)    彼の死から5年後の2014年になって初めて私はマイケル・ジャクソンに出会った。同時代に生きていたのに、マイケルの本質について何も知らなかった長い年月があったことを歯ぎしりするほどに悔しく思う。  なぜあそこまでマイケル・ジャクソンは誤解され続けたのだろう。  なぜあそこまでマス・メディアはマイケルを揶揄し中傷する記事を流し続けたのだろう。ミリオンセールを記録するいくつものアルバムの中で、マイケルが「戦争と不正によって子どもたちが傷つけられていることへの怒りと、子どもを癒すためにできることをする信念」を終生に渡って世界に発信し続けたのに、なぜ私のようなポップミュージックに特別の関心を持たなかった人間には、その声が届かなかったのだろうと改めて思うのだ。  80〜90年代の私のカリフォルニア在住中、小学生だった自分の子どもたちがマイケルの歌を歌い踊りに夢中なのを横目で見ながら、その歌詞が何を語っているかに気を払ったことはなかった。  10歳の息子が歌っているMan in the Mirror(1987)のその歌詞が、反戦と非暴力を歌っているとは思いもしなかった。Black and White(1991)がIt’s not about races. Just places. Faces.人種じゃない、場所だ、顔だ。もういい加減にしてくれと人種差別を訴えているとは思いもよらなかった。  1991年のアルバム「Dangerous」に収められたいくつもの曲が、マイケルの渾身のアメリカの戦争への抵抗であり、子どもの癒しこそが世界を癒すとの揺るがない彼の思想を歌いあげていることを、当時の私は知らなかった。彼と同じ考えから、仕事や活動で同じメッセージを私なりのやり方で発信し続けていたというのに。  私はポップミュージックには疎かったが、90年代はカリフォルニアで子どもの和太鼓グループを立ち上げて、週末毎に地域の音楽フェスティバルで子ども達と演奏していたから、ポップ音楽には近い所にいた。それなのに、マイケル・ジャクソンの時に激しく、時に悲しく、時に辛辣な変革への叫びは私には届かなかった。   冤罪事件の影響  ジョン・レノンが、ボブ・マリーが、スティービー・ワンダーが、社会の不正を見据え、変革のための行動を呼びかける曲を歌って広く支持されていたのに、彼らよりもはるかに明確な変革へのメッセージを80年代からずっと、数多くの曲の中で発信し続けてきたマイケル・ジャクソンへの一般の理解はそうではなかった。子ども向けの踊りと音楽、軽いポップミュージック、派手で軽薄なショービジネス、そんなマイケル像を多くの私たちは、マス・メディアから植え付けられていた。  そして1993年に少年への性虐待嫌疑が持ち上がった。事件は、マイケルがネバーランドに迎い入れたたくさんの子どもたちの一人、その父親が巨額の賠償金目当てに子どもに嘘の証言をさせた冤罪事件だった。  80年代を子どもの虐待分野で仕事をしていた私には、それが賠償金を狙った恐喝事件であることはかなり早い時期から推測できた。マイケルは無実を主張したが、裁判が7年かかることが予想され、音楽活動に多大な影響を及ぼすという弁護士の助言に従って、200万ドルの和解金を払うことで決着をつけた。それを虐待を隠蔽するための買収行為と報道したメディアは少なくなかった。 少年はその数年後、歯科医だった父親から麻酔薬を使われて嘘の証言をするよう誘導されことを公言した。その父親はマイケルの死後数ヶ月後に自殺している。2003年のもう一つの嫌疑は裁判で無実が証明された。   キッズ・ヨーガと「Billie Jean」の出会い  2014年、日本で子どものヨーガクラスを始めた私は、ALOHA KIDS YOGAと名付けたヨーガクラスの中で、一連のポーズを続けて行う太陽礼拝と月礼拝をHIP HOP音楽をバックにしてすることを構想した。その曲探しになんと3ヶ月もかけた。一連のヨーガをしながら、この曲は? あの曲は?と試みていたのだ。なかなか納得する曲に出会えなかった。ジャネット・ジャクソンの曲に合わせてヨーガをやってみて、うーん、今ひとつだなと思ったそのすぐ次に、意図せずしてマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」がかかった。曲に合わせて動きを始めると、すぐにこれだ、この音楽を待っていたんだと動く体が確信していた。1983年リリースの、ジャクソン5から独立したマイケルの自立の象徴のような曲、そしてその後の世界のヒップホップ音楽と踊りに最大の影響を与えることになる歴史的な曲。ビリー・ジーンに決まった。  以来ALOHA KIDS YOGA™では、毎回、月礼拝をマイケルのBillie Jeanで、太陽礼拝を安室奈美恵のQueen of Hip HopのBGMでやっている。ちなみにQueen of Hip Hopは2005年に日本で最初にヒットしたHip Hop曲、日本におけるポップミュージックの歴史を刻んだ曲である。(アロハキッズヨーガについては、本誌2017年10月号・多様性の今3「脳神経多様性と自閉症スペクトラム」及び、本誌2018年2月号・多様性の今7「アロハはいのちの多様性を讃える言葉」を参照  http://empowerment-center.net/aloha-kids-yoga/・・・

「ALOHA」はいのちの多様性を讃える言葉

月刊「部落解放」連載Diversity Now第7回 2018年2月号掲載 編集部の許可のもとに転載 森田ゆり(作家) 「アロハ」という言葉。ハワイの挨拶として世界中の人に知られていますが、本来のハワイ語のアロハは挨拶にとどまらない奥深い意味を持っています。ハワイ先住民の人たちは、それを彼らの生き方と精神性を体現する言葉として大切にしてきました。 一九九三年一一月二三日、当時のアメリカ合衆国大統領クリントンは、ハワイ先住民への謝罪決議(公法一〇三-一〇五)に署名しました。その内容は、一八九三年一月一七日を、ハワイ王国転覆一〇〇年記念と認め、アメリカ合衆国がハワイ王国を転覆させ領土化したことに対して、先住ハワイアンに謝罪するというものでした。 アメリカ合衆国の植民地支配によって、先住ハワイアンは言語をはじめとする自分たちの文化の継承を断絶させられました。しかし一九七〇年代以降、ハワイアンの言語と伝統文化の復活が活発に展開しました。一九七八年にはハワイ語を英語と並ぶ州の公用語とする州法が制定されました。 アンティ・ピラヒ・パキの詠唱 ハワイアンの教育者・精神的リーダーのアンティ・ピラヒ・パキ(パキ叔母さん)(一九一〇-一九八五)は、一九七〇年八月に開催された「二〇〇〇年へ向けたハワイ知事会議」で、壇上のパネリストたちがアロハの定義を論じている時に、聴衆のなかから立ち上がり、まずアロハの精神を保持し続けて来たクプナ(elder 先達)たちに感謝を捧げた上で、次のアロハの詠唱を発表しました。 Oli Aloha アロハの詠唱 Akahai e na Hawai   ハワイの人々よ、思いやりを Lokahi a kulike 助け合うことでハーモニーが生まれ ‘Olu’olu ka manao 心を明るく保ち Ha’aha’a kou kulana 謙虚さを忘れずに Ahonui a lanakila これらを忍耐強く保持すれば生命は光に満ち溢れる (発音は、http://www.realhula.com/aloha-hawaii.html) ちなみに語源は、「ALO-アロ」は「~の前に」、「HA-ハ」は「聖なる呼吸、魂」。あなたは聖なる息の前にある。 参加者は深く心を揺さぶられ、多くが目に涙を浮かべていました。それは一〇〇年間にわたって、蔑まれ、否定され続けてきたハワイアンとしてのアイデンティティを取り戻した喜びの瞬間でもありました。さらにパキ叔母さんは「世界の平和を求める人々はやがて、ハワイに目を向けるでしょう。なぜなら、ハワイにはその鍵があるからです。その鍵こそが『アロハ』です」と予言しました。 以来、この詠唱はハワイアンの伝統的アロハスピリットを伝える唄としてハワイアンの間だけでなく広く知られるようになりました。 ピラヒ・パキは一九一〇年にマウイ島のラハイナで生まれました。ハワイアンの言語と文化が最も抑圧、否定された時代でした。しかし彼女の祖父、父たちは日々の暮らしのなかでそれを見失うことはありませんでした。成人したパキに一人の老人との出会いがありました。「あなたが来るのを待っていたよ」と老人は言い、さらに「私が持つ全てをあなたに授けよう。それを受け取りたいか?」と聞きました。パキは「NO」と答えたといいます。老人は彼女の手をとり祝福しました。その時彼女はまるで全身に電気が走ったようなショックを感じました。彼女はMANA(魂)を受け取ったのです。その時から彼女は失われつつあった先住ハワイアンの言葉と文化の保持と再興に尽くすことになります。 多様性を誇るハワイの文化 ハワイ諸島は、アメリカでも最も民族多様性が複雑であることで知られています。前大統領のブラク・オバマがハワイでケニア出身の父と白人のアメリカ人の母との間に生まれ育ったように、ハワイ人、ポルトガル人、中国人、韓国人、ベトナム人、白人および日本人を含む混合民族グループは全体の四分の一です。ハワイでは混血をハパと呼び、ハパ文化を誇りにしています。 最大の人種グループはアジア系(フィリピン、日系、中国系、韓国系、ベトナム)で約四〇%。先住ハワイアンはカマアイナと敬意を持って呼ばれ一〇%を占め、白人はハオリと呼ばれ、ハワイ人口の約四分の一です。 セクシュアリティの多様性においても、一九七二年に世界で最も早くに同性婚が合法化されたのはハワイ州でした。 ハワイ島でヨーガを教える 私は、二〇一二から一四年にハワイ諸島最南端のビッグアイランド・ハワイ島に住みました。 ハワイ島北部には、ハワイ諸島最高峰標高四二〇〇メートルのマウナ・ケア山がそびえています。マウナ・ケアはハワイ語の白い山の意味、冬になると山頂が雪で覆われるからです。古代より聖地としてハワイアンの祈りの儀式が行われて来ました。眼下で刻々と変化する雲海の色の流れを見ながら、ハワイアンの祈りと詠唱のリズムに身を委ねていると、ハワイアンの人々が伝統の言葉と祈りを保持し続けて来たことへの感謝で心が満たされます。 マウナ・ケア山への登り口にある町ワイメア、信号が一つしかない小さな小さな町が私の町でした。そこにTutuハウスがありました。tutuとはおばあちゃんという意味のハワイ語。そこでは、ヨーガや気功や太極拳、マッサージ、整体、ハワイアンの精神性、フラカヒコ(古典フラ)、マインドフルネス、発酵食品の作り方、環境問題や平和の活動などのワークショップが毎日開催されます。全て無料です。ワークショップを提供するほうもお金を徴収することはできません。 ここで、私は出会ったばかりの老女から「あなたヨーガのインストラクターにならない?」と声をかけられたのです。ヨーガは自分の健康のためにすでに五年ほど続けていましたが、インストラクターになるつもりはまるでありませんでした。しかしその不思議な老女の縁で、結局私はアメリカンヨガ連盟の認定インストラクターとなり、3ヶ月後にはTutuハウスで教え始めました。 ALOHAの教えに導かれたヨーガ 私の最初のクラスに来てくれたのは、九〇歳代から八〇歳代の高齢者たち。膝が曲がらない、転倒して腰を打った、車椅子から離れられない、メンタルがひどく落ち込んでいて自殺念慮がある方などに向けて私のヨーガクラスは始まりました。そのことは私のヨーガクラスの方向性を決めることになりました。 心身の不調に働きかけ、本来の生命力を引き出すエンパワメント・ヨーガ。ハワイアンはその本来の生命力をMANAと呼び、後に紹介する「光の器」の儀式の伝統を保っています。 教えることになってからは、どのようにヨーガクラスを構成するか、何をどう教えるか、私の頭と身体は寝ても覚めてもそのことでいっぱいになりました。こうして一ヶ月後にあらかたの基礎が出来上がったのがALOHA HEALING YOGAでした。 アンティ・ピラヒ・パキによるアロハの詠唱に埋め込まれた5つの叡智がこのクラスをガイドします。 ALOHAのAKAHAI 優しく、思いやりあるヨーガ。比較と競争をしません。自分の体と心に優しいヨーガです。そのために自分の体の声を聞けるようになってください。いつも自分の内、呼吸と身体に意識を集中します。 LOKAHIのユニティー、つながり。サンスクリット語の「YOGA」とはつながるという意味。「LOKAHI」と同義語です。自分の身体と心と思考と魂とがつながる。自分と大地(アイナ)と天(ラニ)とがつながる。 ‘Olu’Olu 誰もが幸せになるために生まれてきた。今を幸せに、明るい心を保持します。 Ha‘aha’a 謙虚さ 大地(アイナ)と天(ラニ)、自然への謙虚さを忘れません。 Ahonui いのちをケアするためには忍耐心と持続が不可欠。ヨーガを毎日する持続の心 このALOHAチャント詠唱で終わるALOHA・・・

アメリカ・インディアン運動リーダー デニス・バンクス・ナウ・カミック氏追悼

月刊「部落解放」連載Diversity Now第6回 2018年1月号掲載 編集部の許可のもとに転載 森田ゆり(作家) 現代のアメリカ・インディアンで最も広く知られている人物、デニス・バンクスが2017年10月29日、精霊世界に旅立ちました。80歳でした。アメリカの主要な新聞、TV始め多くのマス・メディアが彼の死を報じる記事を組みましたが、彼を過激派と色付ける報道も少なくありませんでした。例えばニューヨーク・タイムズ紙は2ページに及ぶ長い記事を載せましたが、その書き出しはこんな文でした。 「1968年にアメリカンインディアン運動を設立し、先住民への政府の対応と不正義の歴史に抗議してしばしば暴動を率いたデニス・バンクスがミネソタ州ローチェスターのマヨ病院で死亡した。」    デニスがウンデドニー占拠に代表される政府の腐敗に抗議する直接行動を率いたのは1968年から76年までの7年間で、その後の彼は死の直前まで40年以上にわたって、教育活動と自然環境運動と非暴力の行進とラン(走行)による若者の精神性の涵養を世界を舞台に精力的に展開し、リードし続けたのですが、そのことに言及するマス・メディアはほとんどありませんでした。 サンフランシスコをベースにするオンライン・ビデオ・ニュース局のアルジャジーラ・メディア・ネットワーク(AJ+)は世界最大のオンライン・映像ニュース局の一つとして注目されていますが、10月30日配信のデニス追悼の1分55秒の短いニュースはかなり公平なものでした。以下に文字化しました。 /www.facebook.com/ajplusenglish/videos/1074991595975680/ 「『何もしないでいることは選択肢に無い』とのデニスの言葉。 デニス・バンクスについては3つのことを知らなければならない。 1、バンクスは先住アメリカ人への虐待の歴史と貧困にあえぐインディアンの現実を広く知らせるために、1968年AIM(アメリカ・インディアン・ムーブメント)を共同設立した。当時アメリカ・インディアン家族の3分の1が貧困暮らしだった。 彼は1973年にサウスダコタ州ウンデドニーでの71日間のAIMメンバーら武器を持った占拠を率いた一人だった。そこは83年前の1890年に300人以上の男、女、子どもが連邦騎兵隊によって虐殺された所だ。『先住アメリカ人がここウンデドニーで武器に訴えなければならないのは、何かおかしいことが起きているに違いないとアメリカ中の人が気づき、先住民が今も生きていることを知っただろう』(デニス・バンクスの言葉) 裁判官は政府による誤った対応があったとの理由で、占拠を率いたバンクスをはじめとするリーダーたちを無罪にした。 2、バンクスはたくさんの行進、抗議、占拠を指揮した。そのひとつが、政府によるおびただしい条約違反に抗議したワシントンDC連邦インディアン局の6日間占拠だ。その結果ニクソン政権は条約を見直すことを約束した。彼は先住民の土地、狩猟、漁業の権利を訴えた。『私たちは大地そのものを守るために行動する』とバンクス。 3、バンクスは生涯を通じて政治行動を続けた。2016年彼はノースダコタ州のスタンディング・ロックで、ダコタ・アクセス・石油パイプラインに対する抗議に参加した。『人として当たり前の生活を求める我々の闘いは終わることはない。不正義をただす闘いは決して終わらない。我々インディアンのドラムの音が止むことはない。』 」 カリフォルニア州の現知事ジェリー・ブラウンは、デニスの死後7日目に知事としての公式の長文メッセージを出した。 「デニス・バンクスは1937年4月12日にミネソタ州のリーチ湖インディアン居留地で生まれた。アメリカが「カウボーイとインディアン」のロマンチックなイメージで過去を演出していた頃、バンクスは、インディアンに対して残酷にして永続的な影響を与えた植民地主義の下で成長した。家族はバラバラになり、貧困とアルコール中毒は収奪された人々を苦しめた。オジブワ族に残された文化をも破壊することを目指した政府の「インディアン学校」で虐待を受けながら育った後、青年バンクスはつまらない軽犯罪で刑務所行きになった。これらは、彼の世代の先住アメリカ人の人生に共通する惨状だった。   かつて西洋の作家ゼイン・グレイは先住民のことを「消えゆく人々」と称したが、デニス・バンクスは違った。刑務所時代の仲間のクライド・ベルコートとともにAIMアメリカインディアンムーブメントを1968年に設立して以来、バンクスは活動家としての見事な能力を発揮して、先住アメリカ人についてのアメリカ人一般の意識を完全に変えることに大きな役割を果たした。彼の初期の方法は荒っぽくて、時には法の外に身を置かざるをえないこともあった。1976年、当時のカリフォルニア州の知事として、私は彼が1973年のサウスダコタ州カスターでの抗議行動に関する容疑を逃れるための亡命を与えるという光栄な機会を得た。私はその決定を極めて慎重に考慮した上で下した。その抗議行動がインディアンの悲劇的な歴史と状況を変えようとして起きたことを認識したからだった。 カリフォルニア州の保護の元でバンクスはDQ大学、州の初めてのインディアン部族による大学の総長を勤めた。 彼のように、一人生の間に、こんなにもたくさんの変化をもたらし、こんなにも広大な意識変化を起こした活動家は他にいるだろうか。デニス・バンクスの死は私にとってあまりに大きな悲しみである。新しい世代のインディアンたちが、アメリカの先住の人々の権利の承認を求めて、彼の意志を継いでいかれることを願ってやまない。     尊敬の心の内に   ジェリー・ブラウンJR 」  私は1979年に、デニスがカリフォルニア州のインディアンのためのDQ大学の総長をしていた頃に、彼の企画するインディアン・セレモニーや先住民の国際会議などに参加する中で出会いました。民主党のブラウン知事の保護の元にカリフルニアにいたデニスは、その後、知事選で新たに選ばれた共和党の知事がデニスを保護しないことを明言したため、政権が交代する前夜、カリフォルニを出て、ニューヨーク州北方カナダとの国境のオノンダガ6カ国連合自治区に保護を求めました。 オノンダガで暮らし始めてしばらくした頃、デニスから私の家に突然の電話があり、彼の半生を書いて日本語で出版して欲しいと頼んできました。その時から5年間かけてわたしは波乱万丈の人生を生きてきたデニスの半世記を書きました。その仕事は、デニスが語り、わたしが書き、共著として出版した「聖なる魂:現代アメリカ・インディアン運動のリーダーの半生」(朝日新聞社)として結実し、1988年に朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞を受賞しました。その年、デニスとわたしは日本各地をサイン会と講演をしてまわり、同時に彼はアメリカ・インディアンの若者を十数人引き連れて来日し、広島、長崎や各地の原発地を祈りながら巡る「聖なるラン」を率いました。週刊朝日は「インディアン旋風日本列島を駆け抜ける」と言ったような見出しでグラビアを組み、その後長く続く日本とインディアンとの平和と正義のための交流が始まりました。    デニスとともにした時間の中で私の知ったデニス・バンクスを彼の目、声、手の三つに分けてお話しましょう。 デニス・バンクスの目 それは1978年の冬、カリフォルニア州デービス市の郊外にあるDQ大学で、初めてイニピ・セレモニー(スウェット・ロッジ儀式)に参加したときのことでした。儀式に使う20個以上の大きな石が真っ赤になるまで焼けるのを、火のそばで待っていた私たちを前に、デニスは石について語りました。何万年もの地球の命をじっと見守ってきた石。賢者の石。聖なる石。人間をはるかに超える叡智を持った生き物としての石。石のいのちを語るデニスの目の深さに惹きつけられました。   石への敬意を語る彼の目は、広い空の果て、悠久の時に向けられていました。そのおごそかな話の最後にはひょうきんなジョークを言い、皆を笑わせた時は、リスのようなクリクリした目でした。なんて深くて動きのある目をしている人だろう、それが私のデニスの最初の印象でした。    その後、様々な場面でのデニスを思い出すと、いつもまず彼の表情豊かな目が浮かびます。マイクを持って権力の不正を糾弾する怒りの目。小さな子どもを膝に乗せて背中をかがめて話しかける暖かい目。仲間のAIMリーダー達と談笑している時の豪快に大笑いする細く光る目。手品をして皆をきょとんとさせた時の嬉しそうにおどけた目。そしてデニスを慕って世界中から集まってくる若者一人一人に向ける優しい目。 デニス・バンクスの声 久しぶりに再会した時のデニスの「ホーレ! 〇○さん」と心から嬉しそうな大声を上げて両手を広げるデニスのあの声を、私だけでなく、きっと世界中のデニスの友人達が思い出すことでしょう。目と同時に声も豊かな表情を持っていました。   特にイニピ・セレモニーをリードするデニスの声は祈りの言葉とともに私の体内に住み着いたかのようです。 デニスと共著の「聖なる魂」のあとがきに書いた彼の祈りの声を、少し長くなりますが引用しましょう。 「日本から来たばかりのデニスの客人と一緒に、私はDQ大学でのイニピ儀式に招待された。(中略)焼け石の熱気が闇の中に充満する。この闇が母なる大地の“子宮”の中なのである。母の胎内に帰って人々はパイプをまわし、祈りの唄を歌う。まもなく熱した石の山の上に水がかけられる。肌を刺し貫くように熱い熱気が全身を覆い、顔中を圧迫する。吸い込む空気が鼻孔を刺す。汗が滝のごとく流れ出る。その肉体的苦痛に耐えながら、歌が続けられる。祈りが続く。そうするうちに不思議な一体感が闇の中に生まれる。   今、ここに座っている他の人々と自分との強いつながりが、涙が出るほど強く胸に迫ってくるのである。大地と私との一体感が全身で感じられるのである。   イニピ儀式はすでにもう何度が体験していたが、その日、デニスはその客人のために、デニスの語る祈りを日本語に訳してほしい、と闇の中で私に言った。 『偉大なる精霊よ。母なる大地よ。四本足の者たち、二本足の者たち、翼を持つ者たちを守り給え。』   一節一節ずつ訳していった。しだいに祈りの言葉に速度が加わる。デニスの言葉、私の言葉、デニスの言葉、私の言葉と、リズムがつき始め、自分でも信じられないほどの的確な訳語が、美しい詩を詠んでいるかのごとくにするすると口をついて出てきた。もはや通訳をしているという意識は私のうちから消え去り、デニスの祈りのリズムにのって、私は憑かれたように唄を歌っている感覚だった。」   暗闇の中で時に静かにおごそかに、時に救いを求めて苦悩を絞り出すように、そして時に感動と感謝に満ちた声。1980年秋のあのイニピセレモニーでのデニスの祈りの声が今は静かに思い出されます。 デニス・バンクスの手 2003年の夏、20年ぶりにサンダンス・セレモニーに参加しました。 ミネソタ州の南西の端、サウスダコダ州との州境の小さな町、パイプストーンでその儀式は8月の灼熱の太陽の下で4日間行われました。サンダンス場は聖なるパイプを作るやわらかい石、パイプストーンの採石場を中心にした広大な乾いた草原に作られていました。 円形広場には四つの方向を示す赤、黒、白、黄の旗が風になびき、地面にはセイジの葉がしきつめられ、すがすがしい匂いを放っていました。会場の外側には青、赤、緑の色とりどりの大きなティピ(円錐形の平原インディアン特有の伝統的住居)がいくつも立ち、スウェットロッジがあり、石を熱する火が燃えている。そこには太陽の動きとともに進行するゆったりとした時間が流れていました。   ・・・

脳神経多様性(Neurodiversity)か自閉症スペクトラムか

Diversity Now. 多様性の今 連載3 「部落解放」2017年10月号 編集部の許可で転載 森田ゆり(作家) 児童養護施設でヨーガを教える  4年前から児童養護施設、児童心理治療施設、児童自立支援施設などでヨーガを教えています。これらの施設では、様々な事情から家庭で養育できない子どもたちが暮らしています。近年は6割以上の入所児が親による虐待、ネグレクト、DVの目撃ですが、その他にも親が入院、行方不明、死亡、拘禁、精神疾患などの理由で入所しています。いずれにせよ、PTSD症状のある子、愛着障害、自閉症、ADHDなどによる困難を抱える子どもたちが少なくありません。ヨーガはこうした困難課題をもつ子どもたちのストレスを軽減し、自分の身体に意識を配るマインドフルネス脳訓練で、集中力、注意力、感情調整力、自信を養うことを目的として実施しています。すでに欧米での近年の研究によってヨーガのこうした効果が統計研究からも、脳の画像研究からも実証されてきているからです。 私も研究者の力を借りて数量的効果調査を続けてきて、ヨーガがストレス軽減だけでなく、集中力や感情調整力を高めていることが明らかになっています。加えて、心理士や生活担当の職員が子どもたちの変化を知らせてくれます。物や人に暴力的に当たることがなくなった。不機嫌やイラつきが減った。「いや」と言ってぐずることが激減した、落ち着いて話しあえるようになった、自信を持ち始めている等々。そういう変化を聞いたり、見たりすると、その度にヨーガを教えさせてもらっていることに感謝の気持ちで一杯になるのです。   アロハキッズヨガを教える最初の一年間は、様々な特性やこだわりを持つ子どもたちの反応一つ一つから学ぶチャレンジの連続でした。マットに座っていることができなくてすぐに部屋の中をうろうろ歩き回る子、突然大きな声を出す、手を叩くことにこだわる子、脊椎側湾症ではないのに背骨をまっすぐに維持することが難しい子、すぐにグニャとマットに体を伏してしまう子、クラスの予定変更に烈火のごとく怒り出した子等々。始まりの瞑想の最中に遅刻して入って来たと思ったら、自分の背丈より長い細い木の枝を鞭のように振りまわす子もいました。その場で必ずポジティブにフィードバックすることを胆に命じて対応して来ました。 多様な子どものいろんな反応  以下に、ヨーガの効果が顕著に現れた子達3人を紹介することで、本稿のテーマの神経多様性について考える材料としましょう。   Aくんは知的能力が高い自閉傾向の強い13歳です。2歳の時から施設で暮らしてきました。第一回目のクラスで彼は最初からマットに座ることができず、10人の生徒と一人の職員と私とでほぼ一杯になっている部屋の後ろの方を右へ左へと歩き続け、時々私に向かって急に接近してきてはまたうろうろ歩き続けるという行動を続けました。皆が瞑想をし、呼吸法を練習し、ポーズを学んでいた60分間、うろうろ、ストップ、私に向かって接近、を無表情に繰り返していました。何しているんだろう、様子を伺っているのかな、とわからないままも、別れ際に「Aくん、来週も来てね」と言う声かけは忘れませんでした。次の週、彼は私よりも早く来てマットの上に座っていました。  「ヨーガは背骨をまっすぐにして座って、ゆっくりと腹式呼吸を続けること」と繰り返し私が言っていたことを彼は最初のクラスでしっかり聞いていたのでしょう。他の誰よりもその二つのことがよくできていました。以来、Aくんは100パーセント集中してヨーガを続けました。いつも無表情なのでヨーガが好きなのかどうかもわからないのですが、一度も休むことなく、周りの子とおしゃべりすることもなくヨーガに集中していました。  3ヶ月後、施設の担当の職員が「A くん、ヨガやるようになって変わったなあ。他の子への攻撃行動がすごく減った」と報告してくれました。5ヶ月後には彼をジュニアリーダーに指名して私と一緒に他の施設に教えに行ってもらいました。そこでジュニアリーダーの役を堂々と果たした様子を見た担当職員が驚きを語りました。人前で何かすることは絶対ダメな子だったのにと。 自閉傾向が良い効果を生むことも?  Bさんは14歳女子。一年ほど前からヨーガクラスに来ています。対人関係がうまく作れなくて孤立してしまいがちということは職員から聞いていました。 自分の内側に集中することを要求されるヨーガのクラスでは、自閉傾向が逆に良い効果をもたらすのかもしれません。背筋をすっと伸ばしての長い瞑想や、ゆっくりと腹式呼吸をしながらのポーズをとることに60分間しっかりと集中することができます。夜は虐待のトラウマ症状としての悪夢に悩まされているのですが、ヨーガクラスで習った呼吸法を使って対応していると担当職員から聞いていました。  先日、ヨーガクラスの後の夕食の席で、Bさんがこんなことを話してくれました。 「ヨガのクラスをやってて本当によかった。前はね、気持ちが全然言えなくて、いっぱいため込んでいたんだ。今は、セラピーの先生にいろんなこと言えるようになったの。これってヨガのおかげだよ。」「成績だって、よくなったんだ。国語のテスト、前は30点代だったのに、今は70点とかとってるの。先生、ヨガ教えてくれてありがとう。」等々。たくさん話をしてくれて、聞いているうちに、食堂は私たち二人だけになっていました。 彼女は、前にも私に「ヨガやっているからすごく集中力がついて、この連休中も3冊も本を読んだ。前はマンガだって最後まで読み通せないで途中でやめちゃってたのに。」と言いにきてくれました。 こんな風に子ども自身が自分の内面や行動の変化に気づいて、それを言葉にしてくれることはあまりないので、とても嬉しいことでした。  Cさんは10歳の女子。父親からの性的虐待で分離措置になったのですが、入所してしばらくは場面緘黙で一切誰とも話しをしませんでした。初めてのヨーガのクラスでも言葉は一言も出ませんでしたが、ヨーガはとても素直に受け入れてやっていました。クラスの中で、私は「ヨーガで一番大切なことは、いつも背筋をすっと伸ばしていることと、ゆっくりとした腹式呼吸を続けていること。この二つができている人はジュニアリーダーとして私と一緒に他の施設に教えに行ってもらいます」と言いました。そのクラスが終了した時、彼女は私が座っているマットの横に来て、「ジュニアリーダーになりたい」とはっきりとした声で言ったのです。場面緘黙だと思っていたので声が聞けて驚きました。彼女も自分にびっくりしたような顔をしていました。その3ヶ月後、彼女はジュニアリーダーとして私と一緒に他の施設に教えに行ってもらうようになりました。 「私たちには“治療”は必要ない」  自閉症スペクトラム障害は、2013年に出版されたアメリカ精神医学会の『DSM-5』(『精神疾患の診断・統計マニュアル』第5版)において、これまでアスペルガー症候群、高機能自閉症、早期幼児自閉症、小児自閉症、カナー型自閉症など様々な診断カテゴリーで記述されていたものが「自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障害」の診断名のもとに統合されました。支援方法も共通であることが多いため、「連続体」を意味する「スペクトラム」という言葉を用いて障害と障害の間に明確な境界線を設けない考え方が採用されたのです。 一方で当事者の中から、自閉症スペクトラム障害という診断に対しても、自閉症は障害ではない、それは脳神経多様性の一つだという主張が出されています。その主張には次のような思いが込められています。 ・私たちに”治療”は必要ない。必要なのは脳神経の違いへの理解と共感に基づくケアである。 ・欠陥、疾病、異常などの言葉の使用は不適切だ。私たちの特性はしばしば定型発達の人々にない能力やストレンス(strength)である。  脳神経多様性運動の推進者たちは、行動療法が自閉症者たちの苦悩を軽減するよりも、定型発達の人々の都合に合わせるように要求されていると言います。自閉症の子どもは手をひらひらさせることをやめるように訓練させられたり、人の目を見て話すことを指導されたりするが、当人たちにとっては、目を合わせることは不安を引き起こす経験なので、誰かの目を見ないようにしようという自然な傾向を抑え込むことは相手が何を話そうとしているか理解することを妨げることにもなりかねないのです。 「自閉症の僕が飛び跳ねる理由:会話のできない中学生がつづる内なる心」が2014年に世界的な大ベストセラーとなって以来、作家として執筆活動を続ける東田直樹さんは、自閉症の人の内的世界を次のような美しい詩的な表現で教えてくれました。 「手のひらをひらひらさせるのはなぜですか?  これは、光を気持ちよく目の中に取り込むためです。  僕たちの見ている光は、月の光のようにやわらかく優しいものです。そのままだと直線的に光が目の中に飛び込んでくるので、あまりに光の粒が見え過ぎて目が痛くなるのです。 でも光を見ないわけにはいきません。光は僕たちの涙を消してくれるからです。 光を見ていると、僕たちは幸せなのです。たぶん、降り注ぐ光の分子が大好きなのでしょう。分子が僕たちを慰めてくれます。それは理屈では説明できません。」(「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」東田直樹著 エスコアール出版部より)  子どもたちに自分の気持ちを言葉にし、それを表現することを知ってほしくて出版した「気持ちの本」(森田ゆり著童話館出版2003年)の最後に、「いちばん悲しいときは 気持ちがわかってもらえないとき いちばんうれしいときは 気持ちが通じあえたとき」という言葉を書きました。この言葉は当時知り合った自閉症の青年の口からでた言葉で、それを聞いたとき、私はとても深いところでその青年と繋がれたように思えて、深い感動をおぼえました。  1990年代、カリフォルニア大学で多様性研修のプログラムを開発していた頃出会ったアメリカの動物学者のテンプル・グランディンから、私は初めて自閉症の人々の独特な視点が定型発達の人にはできない創造をもたらすことを知りました。彼女は、自分の空間認知能力や細部への徹底した集中力は自閉症ゆえに持っているもので、そのおかげで世界的に活用されるようになった非虐待的屠畜場を設計することができたことで知られていました。子ども時代から人間よりも自然と動物を友達にしてきた経験も影響しているそうです。彼女は、もし自分たちのような脳神経タイプがいなかったら、人類は今もって洞窟生活をしていたかもしれないと言いました。電球を発明したエジソンが発達障害を持っていたことを念頭においてのコメントでしょうか。他の著名な自閉症のあった人物として、アインシュタイン、やスティーブ・ジョブ、モーツアルトらが名を連ねます。これらの人々が存在しなかったとしたら、、、と想像するだけで、自閉症的な脳神経が人類の進歩にとって不可欠だったことに納得がいきます。ちなみに彼女の半生をTV映画にした「テンプル・グランディン〜自閉症とともに〜」は2010年エミー賞を受賞。日本語でも視聴可能です。 「フツー病」に陥っていませんか?  脳神経多様性推進者たちは、自閉的な特性を異常な症状として精神疾患に入れる社会を皮肉って「普通の人たち」を「フツー病症候群」または「定型発達症候群」と命名してその症状を以下のようにリストアップしました。 「1、はっきりと本音を言うことが苦手、 2、いつも空気を読んで行動することに懸命、 3、いつも誰かと一緒でないと不安になる、 4、必要なら平気で嘘をつける、 5、フツー病の人たちの和を乱す者を許さない、」  脳神経多様性を主張する人々のこの指摘は耳が痛いです。あらためて、「フツー」は「異常」かもしれないと気が付かせられます。あなたが、あなたの仲間が、あなたの職場が、TVのワイドショーが、国会答弁の場がフツー病に陥っていないかどうかを検証することは、多様性受容力を高めることにつながります。  思えば、発達障害や虐待のトラウマを抱える子どもたちにヨーガを教えるために、自閉症スペクトラム障害の診断基準の知識は必要ではありませんでした。必要だったのは、子どもたち一人一人、脳神経のあり様が様々だという「違い」の受容と、言葉や顔つきの表現がなくても、嬉しさや悲しさや寂しさの感性は「共通」なんだとの多様性理解でした。  14歳の東田直樹くんは、アインシュタインやスティーブ・ジョブやテンプル・グランディンのような高機能自閉症の有名な人々が、テクノロジーや文明の発展に貢献している以上にもっと重要なことを指摘してくれました。自閉症の人は有名人にならなくてもただ自閉症のあるがままで、地球の命の美しさと大切さをフツーの人々に思い出させてくれる人々なのです。 「自閉症についてどう思いますか?  僕は自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のまま生まれてきた人たちなのだと思うのです。これは僕の勝手な作り話ですが、人類は多くの命を殺し、地球を自分勝手に破壊してきました。人類自身がそのことに危機を感じ、自閉症の人たちをつくり出したのではないでしょうか。 僕たちは、人が持っている外見上のものは全て持っているのにも関わらず、みんなとは何もかも違います。まるで、太古の昔からタイムスリップしてきたような人間なのです。 僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっての大切な何かを思い出してくれたら、僕たちは何となく嬉しいのです。」(「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」東田直樹著 エスコアール出版部より) 森田ゆりのエッセイ・論文のトップに戻る

相模原事件と一億総活躍社会

月刊「部落解放」連載Diversity Now第一回 2017年8月号掲載 編集部の許可のもとに転載 森田ゆり(作家) 「女性が輝く一億総活躍社会」のキャッチフレーズ華々しく、2015年以来首相官邸の下に一億総活躍国民会議が設置され「ニッポン一億総活躍プラン」が閣議決定されました。しかし「一億総活躍」と聞いた途端になんとも重たい気分になったのは私だけだったでしょうか。 活躍と云う言葉に「一億総〜」とつける発想がたまらなく嫌です。すべての日本人誰もが活躍しなくていいではないですか。バリバリ仕事して活躍したい人、したくない人。キャリアを積み上げたい人、子育てに専念していたい人。生命力を外に向けて放出したい時期、内に向けて凝縮させたい時期。人それぞれ、マイペース、多様でいいのではないですか。そもそも女性であれ男性であれ、みんなそんなにいつも頑張って、活躍しなくてもいい。「ご活躍ですね」とか声かけられて、わたしはうれしかったことは一度もありません。 女性が輝く一億総活躍社会って、一見、女性に寄り添った政策のように見えなくはないですが、アベノミクスへの批判をかわすための新たなスローガンとしか思えません。その女性政策の実態とは、少子化による労働人口の減少に対応するため、女性たちを非正規雇用の低賃金労働の担い手として駆り出すための様々な方策に過ぎません。派遣、パート、アルバイトなどの非正規雇用の67.8%は女性が占めているのです。(総務省統計局平成29年2月)「あなたも活躍」なんて言葉に惑わされて自分だけ取り残されているような気がして焦ったり、活躍してない自分を責めて落ち込んだりしなくていいのですよ。このキャッチコピーは、戦争中の「一億総動員体制」と同じ発想なのですから。 戦争中は「一億総玉砕」とまで真面目に信じ込まされ、戦後は「一億総懺悔」、「一億総中流化」と、一体いつまでこの国は「一億みんないっしょ」幻想にしがみついていたいのだろうか。「違い」は「間違い」とみなされてしまい、みんな同じで安心安全のホモジニアス幻想から抜け出すことができなくて、わたしたちの国は、いつまでたっても多様性を受け入れることが困難なのです。 超少子超高齢化が危機的スピードで進行しているのに、政府は保育所整備の充実に本気で取り組むこともなく、だからと言って国外からの移民を増やす多民族国家へと舵切りをするでもなく、「一億日本人」をお題目のように繰り返している。でも日本の人口はもうすぐ一億割れしてしまう。内閣府2016年版高齢社会白書によれば、2050年の日本の総人口は9708万人、その4割の3500万人が65歳以上の高齢者なのです。この数字が冷徹に示しているのは日本の国が機能不全に陥り、名実共に崩壊していく近未来です。 相模原障がい者施設の殺傷事件が起きてから三年になります。あの事件の加害者は、重度の障がい者は生きている価値が無いとの主張を衆議院議長と安倍首相宛に直訴した上で、自分が働いていた施設入居者の障がいの重度な人を選んで19人殺し26人に傷害を負わせました。戦後最大の殺傷事件です。 事件の詳細がわかってくるにつれて、加害者は国の立法府と行政府の長が自分の優生思想に理解を示してくれるだろうと本気で信じて手紙を持参したと思わざるをえません。それは彼が精神障害者だったからではなく、「一億総活躍社会」のスローガンを国の目玉方針として掲げるような現政権に彼の優勢思想との親和性を見出したからです。まるで信頼する総大将たちに進言する一兵卒のように、彼は自筆で重度障がい者が国家にとって負担の存在でしかないとの考えとその抹殺の行動プランを事細かに書き、そして実行しました。 あの施設の中の人々は一生活躍することはないでしょう。一億総活躍社会には決して入れない人々です。かつて、一億総動員に同調できない人は「非国民」とされ排除されたように、誰も彼もが国家の旗振りの元で活躍せよと言っているかのようなこのスローガンに合わない人は生きるに値しないことにされてしまう。 たとえ忙しく働いて活躍していなくても、たとえ社会や経済に目に見える形で貢献することがなくても、あの施設の中の人々の命は一つ一つみな輝いているのです。活躍しているから人は輝くわけではありません。ベッドの上で寝返りもままならない人が発する声や仕草やそしてただそこにいてくれることが周りの人を微笑ませたり、ホッとさせたりするとき、その人は輝く。その人の存在が誰か他の存在に暖かさを与える時、命は輝く。 もう一度言いましょう。活躍するから人は輝くのではない。人の命はただ存在するだけで尊く輝いている。そのことを理念やきれいごととしてではなく、心から共感できる人々を増やしていくことこそが、多様性ダイバーシティの推進です。 「多様性とは、人は皆その価値において等しく尊いという人権概念を核にして、さらに人は皆違うからこそ尊いとの認識に立つ考え方である。」 (「多様性トレーニングガイド」森田ゆり著 解放出版2000年)より 事件の加害者は精神障害者ではないが、自分の優生思想を政府に認めてもらえると思って行動に移した思い込みの強い人でした。優生思想は過去の遺物ではなく、今もいたるところに存在します。 優性思想の持主とはおしなべて自尊感情の低さに苦しんでいる人物です。自分は存在しているだけで充分尊く大切な人だと感じられないため、常に他者との比較で自分の大切さを自覚しようとする。自分は誰々よりは偉い、誰より上だとの優越感をいつも肥大させていると同時に、その裏腹に、自分はダメだ、自分の価値は低いとの劣等意識にさいなまれているのです。 自分の大切さを感じるために、その人たちは自分より低いと思える人をいつも必要とします。時には自分より低いと思える人を作り出してでも優越意識を手に入れることへの内的欲求にかられるます。なぜなら彼らはそうすることでしか自分の存在意義を感じられないからです。自分の方が上だと思うための最も手っ取り早い方法は暴言を吐き暴力を振るうことで相手をたじたじとさせることです。暴力を振るうことで得られるこの優越感と有力感は、彼らにとって麻薬のように魅惑的です。相模原事件の加害者もまたそのようなひとりでした。低賃金で重労働の障害者介護に従事するしか選択肢がなかった自分への不甲斐なさは大きかったことでしょう。障がい者介護をしている自分の活躍度の不全感に日々さいなまれていたに違いありません。 この心理構造こそが、いじめ、体罰、DV、性暴力、その他の大半の暴力の本質です。そこには必ず多様性ダイバーシティの排除が並存しています。 これは私が多様性の研修の中で30年近く使っているダイバーシティの円です。この図を見ながら以下の文を読んでください。 違いを仕切る線 「あなたという個性はこの図にあるような様々な要素の集合体である。男である、女である、障がいがある、ない、〜〜国人である、太っている、やせている等々、いずれもあなたの個性の構成要素の一つだ。にもかかわらずあなたがその構成要素の一つだけでしか判断されない時、その一つだけに他人からスポットライトをあてられて強調される時、あなたは偏見を受け、差別されたと感じる。 例えば障がいのあるAさんにとってその障がいはAさんの構成要素の一つに過ぎない。Aさんには障がい以外にも、性別、人種、容姿、性格、気質などのさまざまな構成要素がある。にもかかわらずAさんがその障がいによってのみ判断されたり評価されることは、Aさんにとってトータルな尊厳ある一個人と見られていないことになる。」 1994年にカリフォルニア大学内の大掛かりなダイバーシティ研修の企画者として私は16歳の少女タオ・トランにパネリストとして登壇してもらいました。タオは顔の半分以上に顕著な事故の後遺症を持っていました。壇上に立つなり彼女は聴衆をまっすぐ見据えてこう口を開いたのです。 「私の顔を見てください。(沈黙の間)焼けただれた私のこの顔は私の人生の障害物ではないんです。他の人々がどう私の顔に対応するか、それこそが私にとっての障害です。」 四千人の中高生と教員、大学研究者らの前に立ち、まっすぐ顔を上げて、でも少しも気張ることなくそういったタオの生きる姿勢に会場の人々は深い感動を覚えました。タオはさらに言葉を続けてこういいました。「この顔は私にとって利益でも不利益でもありません。私の生活の最重要ポイントでもなければ、でも無視してしまえることでもありません。それはただ、私と云う存在の一つの部分であるに過ぎないのです。」 (「多様性トレーニングガイド」森田ゆり著 解放出版 147頁) タオはこの多様性の円の意味を見事に示してくれたのです。さらにこの円は次のことを教えてくれます。 「この図のそれぞれを隔てるラインが偏見と差別を生み出すことがある。多様性の図を仕切るこの線が問題になるのは、他人がそれぞれの枠内の人々を排除しようとする時。色眼鏡で見て、偏見でこの枠の中に閉じ込めようとする時だ。 この人は同性愛者、この人は障がい者、この人は中卒、この人は在日と、しばしばこの線は人にレッテルを貼り、線の中の人はこうだ、ああだとのステレオタイプ・偏見を生む。あの人は怠惰だから太っている、外国人だから信用できない、ホームレスだからこわい、などの偏見を持つことで自分はこの人たちとは違うと一線を引く。自分はあの人たちとは違う普通の真っ当な人間だと思うことで優越感を得たり、安心感を得たりする。まっとうな平均的人間という幻想があって、それから外れる人は生きづらくさせられてしまう社会が温存される。人は他者を枠内に閉じ込め、自分はその人たちとは一線を画すのだと思い込むことでまぼろしの安心感を手に入れようとするのである。」 (「多様性トレーニングガイド」森田ゆり著 解放出版 13~14頁) 「みんな仲良く」「皆と同じに」「空気を読め」「平均的な人」「まっとうな人」「普通にしろ」「普通の人」「フツー」と言った言葉が、この国では学校でも、職場でも、公共の場でも絶大なる力を発揮します。 自閉症あるいはASD(Autistic Spectrum Disorder)は、障がいではなく、脳神経多様性(ニューロダイバシティ)であるとの主張が欧米諸国では広がりつつありますが、しかし、今もって「障がいDisorder」病名がつけられている。そこで彼らは社会を皮肉って「普通の人たち」を「フツー病症候群」または「定型発達症候群」としてその症状を以下のようにリストアップしました。 「1、はっきりと本音を言うことが苦手、 2、いつも空気を読んで行動することに懸命、 3、いつも誰かと一緒でないと不安になる、 4、必要なら平気で嘘をつける、 5、フツー病の人たちの和を乱す者を許さない、」 あなたが、あなたの仲間が、あなたの職場が、TVのワイドショーが、国会答弁の場がフツー病に陥っていることはないですか。それを意識することは、「フツー」という名の下に、多様性の受容を縛りがちなこの国の偏狭さを見つめることになります。 わたしは1981年からのトレーナーとしてのキャリアの半分を女性・子どもへの暴力虐待防止の専門職研修に費やし、残りの半分を人権研修、多様性研修のトレーナーとして過ごしました。暴力と多様性は不可分に結びついています。 ドメスティック・バイオレンスは、日本の女性の4.6パーセントが生命の危険を感じる暴力を夫や愛人から受けた事があると答えているほどに身近な問題としての暴力である。親密な関係にある女性たちに暴力をふるうたくさんの男性たちと直接に出会う中で、この男性たちをして暴力行為に向わせるのは、彼らの怒りの衝動のコントロールに問題があるのではなく、アルコールやドラッグ依存に問題があるのではないことを痛感させられました。怒りの衝動やアルコール依存は暴力行動を引き起こすほんの小さな要素でしかありません。彼らをして暴力行為に向わせる最も大きな要素は、女性や子どもの人としての尊厳の軽視であり、身体的、社会的経済的にちからを持たない者に対する蔑視とその裏腹にある優越感でのみ維持しているあまりに脆弱なセルフ・イメージです。 十代の少年たちのふるう暴力の背後にも多様性を認めない排他性が存在しています。自分らしさを認めてくれない大人たちへの存在証明としての暴力が見えてきます。同一の型に自分をはめて生きることを強いてきた家庭や学校の環境に対するあがきとしての暴力が見えてきます。 妻を虐待する夫たち、友人や家族に暴力をふるう少年たちに、怒りをどうコントロールするかの方法を教える事で彼らの暴力はなくなりません。問題は彼らが怒りをコントロールできないことではなく、彼らが他者を、そして自分自身を一人の大切な人格として尊重することを学んでこなかったことです。暴力をふるう人々はおしなべて、その人生の中で深く人格を傷つけられ、尊厳を奪われ、人として尊重されない体験を重ねて来た人々です。人それぞれの尊厳を認め尊重することがいかに大切かを、暴力問題に関りながら日々痛感させられます。あらゆる暴力の背後には多様性を認めない排他性が潜んでいます。 ガンジーの非暴力思想を受け継いだマルティン・ルーサー・キングJr.牧師は、非暴力不服従抵抗運動を率いる中で次のように言いました。 「暴力とは人の尊厳を壊し、人を絶望と無力状態に陥れる全てを意味する。」 多様性の受容と尊重は、身近な人間関係のあり方から、国家と個人の関係性、憲法にまでまたがる大きなテーマです。子どもから大人まで多様性の意味を考え、実生活で生かせるような研修の機会が必要とされています。「一億総日本人」幻想にとりつかれていないで、多民族、多文化社会としての日本のポジティブなあり方を想像し創造していく人々の力に期待します。 (「部落解放」2017年8月号 加筆)

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