第3回ピースWITHアクション:エンパワメントを祝う集い2002年

ピースWITHアクション

 

ピースwithアクション:エンパワメントを祝う集い
森田ゆり

小学校無差別殺人の犠牲者に黙とうする

2001年6月9日に大阪で開かれた「第二回ピースwithアクション:非暴力と音楽の集い」は、その前日に起きた大阪教育大付属池田小学校での児童ら23人の殺傷事件の被害者とその家族への長い黙とうで始まった。事件が起きてからまだ20数時間しかたっていなかった。5百席の会場をほぼ埋め尽くした客席が2分間もの沈黙を維持することに違和感はなかった。すすり泣きが漏れた。誰もが祈りたい気持ちだった。

家庭内の虐待も、路上でのレイプも、小学校での無差別殺人も、そして戦争も、あらゆる暴力はいやだとの意思を表明する。それがこの集いの主題だった。ただしその表現は多様であることがいい。小さな声でもいい、激しくなくてもいい。深刻にならなくてもいい、音楽でもいい、語りでもいい、絵でも写真でも、踊ることでもいい。おとなも、子どもも若者も、障害のある人も、ない人も、在日コリアンも、アイヌの人も、女も男も。楽しく、にぎやかに、深く心打たれて、つながりを求めて、一人一人が自分なりの声をあげて「あらゆる暴力と戦争とそのための地ならし政策には反対です」と言い、希望ある未来のネットワークをつくる活力を得ることがこの集いを主催したわたしたちの趣旨だった。

政治と社会への無力感からアクションへ

「戦争をしない日本でありつづけるために。ちょっと変わったコンサート。ミュージィッシャンたちがあなたと一緒に歌い踊り、巨大な背高女たちが堂々たるパーフォーマンスを繰り広げる。アフリカの熱いリズムが身体の内側から響く。国会議員がざっくばらんに語り、若者たちがホンネを語る。そしてあなたの発言も、そう。あなたもここへ来て私たちと一緒に、とんでもなくおかしい日本の政治に声をあげよう。」

こんな呼びかけの「第二回ピースwithアクション:非暴力と音楽の集い」に集まった人々はスタッフも合わせると450人を超した。北海道、沖縄、九州、四国、関東、北陸など遠隔地からの参加者も2割近くはいた。客席には小学生たちが歩きまわっていた。親子室からは赤ちゃんを抱えた親が観ていた。きちんと背広を着たお年寄りもいた。学生もいた。在日コリアン、欧米人の参加者も多かった。正装した奥様風の人々の隣に、市民活動家風の人々が座っていた。何人もの車椅子の人がいた。障害のある人とその介護者の参加は去年よりはるかに多かった。

多様な人々が舞台に立ち、実に多様な人々が観客席を埋めた。日本の社会では稀にしか目にすることのないこの人間の多様性だけで、この集会はもう充分に大成功だった。
胸の熱くなるいくつもの場面、リズムに乗ってからだを動かした躍動感、自分にもできることがあるとの内から湧きあがる力に感動して、3時間半のプログラムを終演しても参加者たちはなかなか会場から去ろうとしなかった。

エンパワメント

暴力社会を告発し、戦争準備の進む日本の政治に真っ向から抗議することも大切だ。でもこの集会ではその次のステップを共有したかった。そんな社会に向き合うための一人ひとりの内的な力を引き出しあうこと。エンパワメント。単にこの集会に来て元気が出たとのことではなく、その元気が家に帰って一人になっても持続するための内なるパワーの充電をすることだ。
主催側のその意図は期待をはるかに超えて達成できた。

終演後のロビーで、興奮いまだ冷めやらぬたくさんの人々の言葉を聞いた。

「自分のパワーが湧きあがってきて涙がとまりませんでした。」

「わたしも声を発したい。自分の考えや思いを発信したいと思いました。」

「こんなイベントを四国の自分の地でも開きたいから協力してほしい。」

「わたしに何ができるだろうと思っていたけれど、大きな力を与えられました。」

「一つ一つのアクションに心揺さぶられました。私の周りには考える事をしない人が多すぎて、自分の気持ちを話しても固いなと思われるだろうから、あんまり言えないんです。すごく刺激になりました。」
(10代の学生)

「笑いあり、ぐーっと来たり、考えたり、ほろりとしたりで、迫力がありました。」
(60代の専業主婦)

「世界のいろんな太鼓を体感。その音が自分の中の沈んだ感情を動かしてくれた。楽しくつながりあうメッセージと音楽を日常の中に生み出す事が、非暴力の取り組みだと気づかせてくれました。きょうのキーワードは体感でした。」

エンパワメントとは、まわりのサポートの中で、自分のもつ諸々の力に気がつき、それを活性化させていくことだ。互いを尊重しあおうとする受容的な関係の中では、誰もが自分の特性や強みや素晴らしさを発見しそれを発揮することができる。

集会の中頃に舞台の上で予期しなかった一シーンが起きた。それはこの集会のエンパワメントのメッセージを会場のすべての人に刻印した出来事となった。5人の若者によるアフリカンパーカッション・グループ「レギレギ」の演奏に、会場が一体となってその熱いリズムに乗っていたとき、突然、大きな身体の若者が舞台に駆け上がって、ぴょんぴょんと跳ね始めた。おそらく脳性麻痺の障害がある彼は、舞台を大胆に駆け回り跳ね回った。その彼の存在を一瞬奇異に思った人もいただろう。でもレギレギの音楽に酔いしれて身体が自然に動き出していた多くの観客は、自分だって舞台に飛び乗って踊りたくなる衝動を感じていた。

レギレギのドラマーたちは、飛び回る彼に笑いかけ、彼の手を取ってドラムを一緒に叩き、彼と一緒にジャンプして踊った。すると彼はもっともっと激しく飛び跳ねた。音楽が大好きなんだ。ここにいることが嬉しいんだ。顔見合わせ笑いあうこと、言葉を超えて心が響き会うことは素晴らしい。ジャンプし続ける彼の全身がそのことを表現していた。

ありがとう。この集会に来てくれてありがとう。そして気持ちを真っ直ぐに表現してくれてありがとう。気持ちを全身で表現することを恥じらう多くの私たちのかたくなな心の深くを、あなたの行為が揺さぶっているよ。わたしはそう思いながら彼の姿を見詰め続けた。

多様性のプログラム

小学校に乱入した男によって殺された子どもたちへ哀悼の黙とうを捧げた後、舞台には「唄う浪速の巨人」とも呼ばれる趙博さんが立ち、歌い語った。豊かな声量の包容力と辛辣な日本社会への批判が交じり合ったメッセージだった。

わたしは和太鼓を17歳の娘と演奏した後、オーストラリア、アボリジニの楽器、ディジュリドゥーの伴奏で、「洞穴の女神たち」という創作ストーリーを語った。戦争の最中、暴力に向き合った女たちの思いを伝え、その歴史をどうわたしたちは引き継いでいかれるのかを物語りにして語った。

衆議院議員の北川れん子さんは、戦争への布石を敷く政策を指摘し、国会で進行する危険な動きを報告してくれた。出演予定だった衆議院議員、辻元清美さんは次のような長文のメッセージを寄せてくれた。

「『戦争をしない日本であり続けるために』。いま、このフレーズが切ないくらいに心に染みます。戦争をしない日本であり続けられるのかどうか、私の人生の中で、いまほど切迫してこの問いをつきつけられたことはないように思います。
変人=変革の人として、圧倒的な支持率を誇って登場した小泉さん。彼が今までの政・官・業癒着の政治に本当にきっぱりメスを入れるなら、わたしも彼を変革の人と認めましょう。
でも、小泉さんの発言に注意深く耳を傾けるとき、私には『変人・小泉さん』より、『軍人・小泉さん』の側面が危惧されて仕方ないのです。
(中略)
『ピースwithアクション』の呼びかけの中で「わたしたちが日々関わっている個人的なレベルで起こる暴力の先に、最大の暴力である戦争がある」と述べてあります。

ただ『戦争反対!』と叫んでも戦争のない社会は実現できない。わたしたち一人一人がまわりの人とどのような関わりをもつのか。その延長線上に『戦争をしない日本でありつづけること』の可能性がはじめて見えてくる。きょうはそのことを再確認する日でもあると思います。 本日の集会が皆さんの勇気と希望をつなぐ場となりますように!」

なぜ今、戦争という暴力への危惧なのかとの議員の話の後に、人気の高いシンガー、パクポー朴保が音域の広い迫力のある声とギターで圧倒的存在感を放った。北海道から駆けつけたアイヌの石川ポンペさんのムックリ演奏、趙博さんのコリアン・ドラムの伴奏で、朴保は観客席の人々を歌と踊りの興奮に巻き込んだ。

学びのプロセス

「ピースwithアクション」は約40人の子どもも大人も老若男女が6ヶ月以上に渡って準備した。

その準備とは「楽習会」と呼んだ公開学習会を何度か開き、戦争出前噺を始めて15年、9万人の人々に戦争体験を語り続けて来た87歳の本多立太郎さんの話を聞いたり、身体を解き放つワークショップを開いたり、ボイスヒーリングを体験したりする学びのプロセスだった。たくさんのことを学び、論争し、協力し、励ましあい、ありがとうを言い合ったプロセスそのものが主催した側の「ピースwithアクション」だった。

主催側メンバーの13歳から20代前半の十数人の若者たちは当日「若者のホンネ」を語る15分間の舞台を作るために半年間、話しあいと準備をした。戦争なんて言われたってそんな危機感はない。

今の時代を生きる若者にとって大人社会は何を意味するのか。正義感をふりかざすのではなく、自分を偽らず、同時代を生きる子どもとして、若者として、どんな言葉を紡ぎ出す事ができるのか。その努力の成果を彼らは舞台で表現した。

結果は圧倒的だった。盛りだくさんの3時間半の舞台の中で最も人々を感動させたのが彼らの「若者のホンネ」の15分だった。

参加者のアンケートには「10代の人たちが、いろんなことを真剣に柔軟に考えている事が楽しく聞けて素晴らしかった」「若者の参加が心強く、希望が持てました」などと、「若者のホンネ」に心打たれたコメントが実にたくさん書かれていた。

とびっきりの障害児・白木光行くんと母の幹代さんは「流れを止めること」の勇気と困難を、障害ある人の視点から歌い、語った。筋緊張性ジストロフィーの障害を持つ光行くんを車椅子に載せてラッシュ時間の梅田駅を通るとき、止む事のない人の流れを横切らなければ車椅子用のスロープに行けない。せわしく歩く群衆の一人ひとりは良い人なのにちがいない。でも誰も自分が立ち止まることで人の流れを止めて、車椅子の光行くんを通してあげようとの行動には出ない。そんな経験を語る母、幹代さんのメッセージは、憲法改ざんや教育基本法を変えようとする今の政治の大きな流れを誰かが止めなければならない、そのためには勇気が要り、一緒に行動する仲間が要り、まわりから文句を言われることも引き受けなければならないわたしたちの社会の状況に大切な示唆をくれたのだった。

舞台は一転して、アフリカンパーカッション「レギレギ」バンドの演奏となった。レギレギの演奏は聞くものではなく、体中がむずむずと動き出して、声をあげ、立ち上がって足踏みをし、踊り出す音楽だ。すでに述べたように、だから舞台に飛び乗る人も現れた。

「おどらにゃソンソン」と繰り返すリズムに乗ってお年寄りも、主婦も子どもも誰も彼もが身体をゆすった。

「ピースwithアクション」のフィナーレは身長2.5メートルの30人の「背高女」たちだ。華やかな衣装を身に着け、仮面をかぶり、「ボレロ」の曲に合わせて、舞台狭しと歩き踊る彼女たちたちは11歳から50歳代までさまざまな年齢の女たちだ。

「わたしたち背高女の多くは、子どもと女性への暴力防止のために活動する者たちです。わたしたちは、わたしたちから希望や生きる希望を奪っていくこの国の政治の在り方や、さまざまな暴力を根底で容認している社会の歪みに、もはやこれ以上我慢のならない女たちです。わたししたちは、背高く歩き回って、子どもへのあらゆる暴力、家庭内や身の回りの暴力、そして戦争という最大の暴力にも、NO!の声を上げ続けています。2.5メートルの高みからグローバルに世界をながめ、ローカルに行動する女たちです。」

大きい女は厭われてきた。物理的にも、社会的にも女がスペースをとることはいやがられてきた。うるさい女、騒がしい女は煙たがられて来た。女は隅の方で、場所を取らずに、目立たぬように、子どもと男たちの世話をすることが美徳とされてきた。

しかし背高女たちは、いのちの讃歌と、いのちを脅かすあらゆる暴力に立ち向かうために、その華麗なる巨体で存在感を誇示する。母、娘、おばあちゃんもスティルツに乗って、目立ち、にぎやかに、リズミカルに、笑いを振りまきながら、これからも日本のあちこちに神出鬼没する。

もともと、スティルツに乗って巨体の道化になるのはアフリカの伝統芸能だ。昨年夏のオーストラリアでのオリンピックの開会式にも道化として登場していた。「背高女」もこれからずっと、暴力への抗議行動、非暴力のメッセージをトリックスター(道化)として発信する役割を果たしていくだろう。

ピースwithアクションの最後は観客が発言する「1分間メッセージ」だ。戦争体験出前噺を続けてきた87歳の本多立太郎さんが挨拶をした。小学生が発言した。養護施設の子どもたちのグループからの報告があった。「戦争と女性への暴力の会」の主張もあった。

そして最後の最後は、若者たちが作ったピースwithアクションのテーマソング「まだ見ぬあなたへ」を舞台と客席が一つとなって大合唱した。その歌のリフレインがいつまでも続く中、3時間半のプログラムが余韻を残して終わった。

ロビーでは著名な写真家、長倉洋海のアフガンの子どもたちのミニ写真展を開いた。

また各界で活躍する人々がピースwithアクションによこしてくれたメッセージを一冊に集めたメッセージ集も作成した。筑紫哲也、宇井純、土井たか子、デニス・バンクス、アレン・ネルソン、丸木美術館、上野千鶴子、永六輔、田島征三、吉田ルイ子、保坂展人、中川智子ら、51人もの人々からの熱い支援の言葉を受けることを、わたしたちはどんなに心強く思ったかしれない。

参加者はこんな言葉を残して帰っていった。

「いろんな異文化の音楽、若者のホンネ、背高女、障害のある人。出演者も参加者も、いろんな世代、女も男も、障害のある人もたくさんいて、この輪がどんどん大きくなりますように」
(11歳の娘と参加した主婦)

「重くなりがちなテーマを老若男女問わず楽しめるイベントで素晴らしかった」
(小規模作業所職員)

「「平和と戦争についての催しというと、暗いイメージなのですが、このイベントは会場の人たち、出演者が一体となってとても楽しく、明るくて良かった」
(市民運動スタッフ)

「平和を語るのに深刻になり過ぎず、生活の一部として楽しく愉快にやりたいよねー。」
(シェルターを運営する60代)

このようなピースwithアクションをわたしたちはこれからも何度も開いて行きます。あなたもあなたの場で人々の声をつなぐイベントを開きませんか。無力感を覚えるときには希望をあえて口に出して、行動にして共有し合うことの大切さを痛感します。わたしとあなたとあなたの家族と友人とそのまた友人と、果てしなく続く希望の鎖をつなげて行きたいです。亡くなった高木仁三郎さんが提唱した「希望のネットワーク化」をわたしたちは引き継いで行きます。さあ、あなたも加わりませんか。

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