相模原事件と一億総活躍社会

月刊「部落解放」連載Diversity Now第一回 2017年8月号掲載 編集部の許可のもとに転載

森田ゆり(作家)

「女性が輝く一億総活躍社会」のキャッチフレーズ華々しく、2015年以来首相官邸の下に一億総活躍国民会議が設置され「ニッポン一億総活躍プラン」が閣議決定されました。しかし「一億総活躍」と聞いた途端になんとも重たい気分になったのは私だけだったでしょうか。

活躍と云う言葉に「一億総〜」とつける発想がたまらなく嫌です。すべての日本人誰もが活躍しなくていいではないですか。バリバリ仕事して活躍したい人、したくない人。キャリアを積み上げたい人、子育てに専念していたい人。生命力を外に向けて放出したい時期、内に向けて凝縮させたい時期。人それぞれ、マイペース、多様でいいのではないですか。そもそも女性であれ男性であれ、みんなそんなにいつも頑張って、活躍しなくてもいい。「ご活躍ですね」とか声かけられて、わたしはうれしかったことは一度もありません。

女性が輝く一億総活躍社会って、一見、女性に寄り添った政策のように見えなくはないですが、アベノミクスへの批判をかわすための新たなスローガンとしか思えません。その女性政策の実態とは、少子化による労働人口の減少に対応するため、女性たちを非正規雇用の低賃金労働の担い手として駆り出すための様々な方策に過ぎません。派遣、パート、アルバイトなどの非正規雇用の67.8%は女性が占めているのです。(総務省統計局平成29年2月)「あなたも活躍」なんて言葉に惑わされて自分だけ取り残されているような気がして焦ったり、活躍してない自分を責めて落ち込んだりしなくていいのですよ。このキャッチコピーは、戦争中の「一億総動員体制」と同じ発想なのですから。

戦争中は「一億総玉砕」とまで真面目に信じ込まされ、戦後は「一億総懺悔」、「一億総中流化」と、一体いつまでこの国は「一億みんないっしょ」幻想にしがみついていたいのだろうか。「違い」は「間違い」とみなされてしまい、みんな同じで安心安全のホモジニアス幻想から抜け出すことができなくて、わたしたちの国は、いつまでたっても多様性を受け入れることが困難なのです。

超少子超高齢化が危機的スピードで進行しているのに、政府は保育所整備の充実に本気で取り組むこともなく、だからと言って国外からの移民を増やす多民族国家へと舵切りをするでもなく、「一億日本人」をお題目のように繰り返している。でも日本の人口はもうすぐ一億割れしてしまう。内閣府2016年版高齢社会白書によれば、2050年の日本の総人口は9708万人、その4割の3500万人が65歳以上の高齢者なのです。この数字が冷徹に示しているのは日本の国が機能不全に陥り、名実共に崩壊していく近未来です。

相模原障がい者施設の殺傷事件が起きてから三年になります。あの事件の加害者は、重度の障がい者は生きている価値が無いとの主張を衆議院議長と安倍首相宛に直訴した上で、自分が働いていた施設入居者の障がいの重度な人を選んで19人殺し26人に傷害を負わせました。戦後最大の殺傷事件です。

事件の詳細がわかってくるにつれて、加害者は国の立法府と行政府の長が自分の優生思想に理解を示してくれるだろうと本気で信じて手紙を持参したと思わざるをえません。それは彼が精神障害者だったからではなく、「一億総活躍社会」のスローガンを国の目玉方針として掲げるような現政権に彼の優勢思想との親和性を見出したからです。まるで信頼する総大将たちに進言する一兵卒のように、彼は自筆で重度障がい者が国家にとって負担の存在でしかないとの考えとその抹殺の行動プランを事細かに書き、そして実行しました。

あの施設の中の人々は一生活躍することはないでしょう。一億総活躍社会には決して入れない人々です。かつて、一億総動員に同調できない人は「非国民」とされ排除されたように、誰も彼もが国家の旗振りの元で活躍せよと言っているかのようなこのスローガンに合わない人は生きるに値しないことにされてしまう。

たとえ忙しく働いて活躍していなくても、たとえ社会や経済に目に見える形で貢献することがなくても、あの施設の中の人々の命は一つ一つみな輝いているのです。活躍しているから人は輝くわけではありません。ベッドの上で寝返りもままならない人が発する声や仕草やそしてただそこにいてくれることが周りの人を微笑ませたり、ホッとさせたりするとき、その人は輝く。その人の存在が誰か他の存在に暖かさを与える時、命は輝く。

もう一度言いましょう。活躍するから人は輝くのではない。人の命はただ存在するだけで尊く輝いている。そのことを理念やきれいごととしてではなく、心から共感できる人々を増やしていくことこそが、多様性ダイバーシティの推進です。

「多様性とは、人は皆その価値において等しく尊いという人権概念を核にして、さらに人は皆違うからこそ尊いとの認識に立つ考え方である。」
(「多様性トレーニングガイド」森田ゆり著 解放出版2000年)より

事件の加害者は精神障害者ではないが、自分の優生思想を政府に認めてもらえると思って行動に移した思い込みの強い人でした。優生思想は過去の遺物ではなく、今もいたるところに存在します。

優性思想の持主とはおしなべて自尊感情の低さに苦しんでいる人物です。自分は存在しているだけで充分尊く大切な人だと感じられないため、常に他者との比較で自分の大切さを自覚しようとする。自分は誰々よりは偉い、誰より上だとの優越感をいつも肥大させていると同時に、その裏腹に、自分はダメだ、自分の価値は低いとの劣等意識にさいなまれているのです。

自分の大切さを感じるために、その人たちは自分より低いと思える人をいつも必要とします。時には自分より低いと思える人を作り出してでも優越意識を手に入れることへの内的欲求にかられるます。なぜなら彼らはそうすることでしか自分の存在意義を感じられないからです。自分の方が上だと思うための最も手っ取り早い方法は暴言を吐き暴力を振るうことで相手をたじたじとさせることです。暴力を振るうことで得られるこの優越感と有力感は、彼らにとって麻薬のように魅惑的です。相模原事件の加害者もまたそのようなひとりでした。低賃金で重労働の障害者介護に従事するしか選択肢がなかった自分への不甲斐なさは大きかったことでしょう。障がい者介護をしている自分の活躍度の不全感に日々さいなまれていたに違いありません。
この心理構造こそが、いじめ、体罰、DV、性暴力、その他の大半の暴力の本質です。そこには必ず多様性ダイバーシティの排除が並存しています。

これは私が多様性の研修の中で30年近く使っているダイバーシティの円です。この図を見ながら以下の文を読んでください。

違いを仕切る線

「あなたという個性はこの図にあるような様々な要素の集合体である。男である、女である、障がいがある、ない、〜〜国人である、太っている、やせている等々、いずれもあなたの個性の構成要素の一つだ。にもかかわらずあなたがその構成要素の一つだけでしか判断されない時、その一つだけに他人からスポットライトをあてられて強調される時、あなたは偏見を受け、差別されたと感じる。

例えば障がいのあるAさんにとってその障がいはAさんの構成要素の一つに過ぎない。Aさんには障がい以外にも、性別、人種、容姿、性格、気質などのさまざまな構成要素がある。にもかかわらずAさんがその障がいによってのみ判断されたり評価されることは、Aさんにとってトータルな尊厳ある一個人と見られていないことになる。」

1994年にカリフォルニア大学内の大掛かりなダイバーシティ研修の企画者として私は16歳の少女タオ・トランにパネリストとして登壇してもらいました。タオは顔の半分以上に顕著な事故の後遺症を持っていました。壇上に立つなり彼女は聴衆をまっすぐ見据えてこう口を開いたのです。

「私の顔を見てください。(沈黙の間)焼けただれた私のこの顔は私の人生の障害物ではないんです。他の人々がどう私の顔に対応するか、それこそが私にとっての障害です。」 四千人の中高生と教員、大学研究者らの前に立ち、まっすぐ顔を上げて、でも少しも気張ることなくそういったタオの生きる姿勢に会場の人々は深い感動を覚えました。タオはさらに言葉を続けてこういいました。「この顔は私にとって利益でも不利益でもありません。私の生活の最重要ポイントでもなければ、でも無視してしまえることでもありません。それはただ、私と云う存在の一つの部分であるに過ぎないのです。」
(「多様性トレーニングガイド」森田ゆり著 解放出版 147頁)

タオはこの多様性の円の意味を見事に示してくれたのです。さらにこの円は次のことを教えてくれます。

「この図のそれぞれを隔てるラインが偏見と差別を生み出すことがある。多様性の図を仕切るこの線が問題になるのは、他人がそれぞれの枠内の人々を排除しようとする時。色眼鏡で見て、偏見でこの枠の中に閉じ込めようとする時だ。
この人は同性愛者、この人は障がい者、この人は中卒、この人は在日と、しばしばこの線は人にレッテルを貼り、線の中の人はこうだ、ああだとのステレオタイプ・偏見を生む。あの人は怠惰だから太っている、外国人だから信用できない、ホームレスだからこわい、などの偏見を持つことで自分はこの人たちとは違うと一線を引く。自分はあの人たちとは違う普通の真っ当な人間だと思うことで優越感を得たり、安心感を得たりする。まっとうな平均的人間という幻想があって、それから外れる人は生きづらくさせられてしまう社会が温存される。人は他者を枠内に閉じ込め、自分はその人たちとは一線を画すのだと思い込むことでまぼろしの安心感を手に入れようとするのである。」
(「多様性トレーニングガイド」森田ゆり著 解放出版 13~14頁)

「みんな仲良く」「皆と同じに」「空気を読め」「平均的な人」「まっとうな人」「普通にしろ」「普通の人」「フツー」と言った言葉が、この国では学校でも、職場でも、公共の場でも絶大なる力を発揮します。

自閉症あるいはASD(Autistic Spectrum Disorder)は、障がいではなく、脳神経多様性(ニューロダイバシティ)であるとの主張が欧米諸国では広がりつつありますが、しかし、今もって「障がいDisorder」病名がつけられている。そこで彼らは社会を皮肉って「普通の人たち」を「フツー病症候群」または「定型発達症候群」としてその症状を以下のようにリストアップしました。

「1、はっきりと本音を言うことが苦手、
2、いつも空気を読んで行動することに懸命、
3、いつも誰かと一緒でないと不安になる、
4、必要なら平気で嘘をつける、
5、フツー病の人たちの和を乱す者を許さない、」

あなたが、あなたの仲間が、あなたの職場が、TVのワイドショーが、国会答弁の場がフツー病に陥っていることはないですか。それを意識することは、「フツー」という名の下に、多様性の受容を縛りがちなこの国の偏狭さを見つめることになります。

わたしは1981年からのトレーナーとしてのキャリアの半分を女性・子どもへの暴力虐待防止の専門職研修に費やし、残りの半分を人権研修、多様性研修のトレーナーとして過ごしました。暴力と多様性は不可分に結びついています。

ドメスティック・バイオレンスは、日本の女性の4.6パーセントが生命の危険を感じる暴力を夫や愛人から受けた事があると答えているほどに身近な問題としての暴力である。親密な関係にある女性たちに暴力をふるうたくさんの男性たちと直接に出会う中で、この男性たちをして暴力行為に向わせるのは、彼らの怒りの衝動のコントロールに問題があるのではなく、アルコールやドラッグ依存に問題があるのではないことを痛感させられました。怒りの衝動やアルコール依存は暴力行動を引き起こすほんの小さな要素でしかありません。彼らをして暴力行為に向わせる最も大きな要素は、女性や子どもの人としての尊厳の軽視であり、身体的、社会的経済的にちからを持たない者に対する蔑視とその裏腹にある優越感でのみ維持しているあまりに脆弱なセルフ・イメージです。

十代の少年たちのふるう暴力の背後にも多様性を認めない排他性が存在しています。自分らしさを認めてくれない大人たちへの存在証明としての暴力が見えてきます。同一の型に自分をはめて生きることを強いてきた家庭や学校の環境に対するあがきとしての暴力が見えてきます。

妻を虐待する夫たち、友人や家族に暴力をふるう少年たちに、怒りをどうコントロールするかの方法を教える事で彼らの暴力はなくなりません。問題は彼らが怒りをコントロールできないことではなく、彼らが他者を、そして自分自身を一人の大切な人格として尊重することを学んでこなかったことです。暴力をふるう人々はおしなべて、その人生の中で深く人格を傷つけられ、尊厳を奪われ、人として尊重されない体験を重ねて来た人々です。人それぞれの尊厳を認め尊重することがいかに大切かを、暴力問題に関りながら日々痛感させられます。あらゆる暴力の背後には多様性を認めない排他性が潜んでいます。

ガンジーの非暴力思想を受け継いだマルティン・ルーサー・キングJr.牧師は、非暴力不服従抵抗運動を率いる中で次のように言いました。
「暴力とは人の尊厳を壊し、人を絶望と無力状態に陥れる全てを意味する。」

多様性の受容と尊重は、身近な人間関係のあり方から、国家と個人の関係性、憲法にまでまたがる大きなテーマです。子どもから大人まで多様性の意味を考え、実生活で生かせるような研修の機会が必要とされています。「一億総日本人」幻想にとりつかれていないで、多民族、多文化社会としての日本のポジティブなあり方を想像し創造していく人々の力に期待します。
(「部落解放」2017年8月号 加筆)

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